自民党総裁選と立憲民主党代表選を見ていて「望ましい政治指導者」について考えさせられました。直接お話ししたことのある人が多くて客観的に見ることはできないので、両党の候補者の皆さんについてはコメントしませんが、歴上の人物で「どんな政治指導者が望ましいか」について考えてみました。
海外と日本でそれぞれ一人だけ「望ましい政治指導者」を選ぶとすれば、アイゼンハワー大統領と大久保利通の名前を挙げます。以前はウィンストン・チャーチル首相がもっとも偉大な海外の政治指導者だと思っていましたが、最近はアイゼンハワーの方が好きです。
ドワイト・デービッド・アイゼンハワーはテキサス州の片田舎の工場労働者の息子として生まれました。読書好きの少年でしたが、大学に行くお金がなく、無償で教育を受けるために陸軍士官学校(ウエスト・ポイント)に入学します。
第一次世界大戦中は国内で兵士の教育や人事、兵站といった任務に就き、実務能力を高く評価されました。マッカーサー元帥は、アイゼンハワーを「陸軍一の事務官」と呼び高く評価し、副官に任命しました。戦場での指揮経験はありません。
堕二次世界大戦が始まるとアイゼンハワーは51歳でヨーロッパ戦線の連合軍最高司令官を命じられます。アイゼンハワーはカリスマ的なリーダーではありませんが、人を見る目があり、どうすれば物事を動かせるかを知っていました。
アイゼンハワーの良いところは「カリスマ的リーダーではない」ことです。ピーター・ドラッカーは次のように言います。
真の指導者はカリスマで導くのではない。カリスマほど胡散臭いものはない。真に力のある指導者は献身と勤勉によって導き、すべてを掌握しようとせず、チームをつくる。手練手管ではなく誠意で支配する。真の指導者は利口ではなく、純粋で誠実である。
アイゼンハワーは、ドラッカーのいう「真の指導者」だと思います。誠実でチームをつくる名人でした。アイゼンハワーのモットーは「物腰は柔らかく、行動は力強く」でした。
アイゼンハワー将軍は、ノルマンディー上陸作戦を成功させ、ドイツを降伏させた功労者として、国民的な英雄になります。大統領選にかつぎ上げようとする動きがありましたが、政治の世界に入ることには消極的で、コロンビア大学の学長に就任します。第二次世界大戦を「民主主義を守るための戦い」と位置づけたアイゼンハワーは、市民を育てる教育に関心を持っていました。
その後、トルーマン大統領によって新設のNATOの最初の最高司令官に任命され、パリに赴任します。1952年には共和党と民主党の両方から大統領選挙への立候補を求められます。最初は断りますが、最後は説得されて共和党の大統領候補になります。アイゼンハワーは「自分が大統領にならなければ、とんでもない人物が大統領になってしまう」という消極的な理由から立候補要請に応じたともいわれます。うろ覚えの記憶ですが、ニクソンが大統領になるくらいなら、自分がなった方がマシと考えて立候補した、という記述をどこかで読んだ気がします。
アイゼンハワー大統領は、戦争回避や軍事費削減に力を尽くします。朝鮮戦争の早期終結に動き、休戦協定を成立させます。インドシナ戦争ではフランスから要請されても軍事援助を断りました。スエズ動乱(第二次中東戦争)ではイギリス、フランス、イスラエルの横暴を抑え、ソ連や国連と連携して停戦させました。共産主義の脅威に対する過剰反応を戒め、共和党マッカーシー上院議員による「赤狩り」をやめさせました。日本への原爆投下は不必要だったと信じ、核兵器は平和の確保に役立たないと考えていたようです。
ソ連が人工衛星の打ち上げに成功すると、国民の恐怖心をあおって軍事費を増やそうという動きとは一線を画し、退任時のスピーチでは「軍産複合体」への警戒感を述べ、軍備拡大に抑制的な姿勢を貫きました。第二次世界大戦の英雄でありながら(あるいは戦争の経験者だからこそ)、戦争を憎む姿勢が明確でした。次の言葉は感動的です。
銃の製造、軍艦の進水、ロケットの発射は、結局のところ、飢えや寒さに苦しむ者たちからの搾取を意味する。この武装した世界はお金だけではなく、労働者の汗、科学者の才能、子どもたちの希望を浪費している。これは本当の意味での生き方ではない。
生粋の陸軍軍人であり、連合軍総司令官の言葉だけに、説得力があります。アイゼンハワーは「貧困は必ず紛争を招く」といい、経済的な安定を重視し、軍事費の削減に取り組みました。公共インフラの整備に力を入れ、保健教育福祉省を創設し、大学教育の普及に取り組みました。
アイゼンハワーの言葉には謙虚さが表れています。
何人(なんびと)であれ部下の血と仲間の犠牲で贖(あがな)われた高い評価を受ける者は常に謙虚であらねばならない。
その他に私が好きなアイゼンハワーの言葉にこんなのもあります。
計画そのものに価値はない。計画し続けることに意味があるのだ。
これはうちの娘にも言い聞かせています。「計画倒れになってもいいから、計画を立てることで、いろんな状況を頭のなかでシミュレーションできるんだよ。計画はときどき変更したり、軌道修正したりするものだよ」と教えています。
次に日本の政治家で尊敬できる人物は大久保利通です。西郷隆盛に比べて人気はありませんが、明治国家を建設したのは大久保利通です。西郷隆盛は古い体制を壊すのには向いていたかもしれませんが、新体制の基礎を築く仕事には向いていなかったと思います。前例のない事態や危機にあたって方向性を明確に定め、私利私欲を捨てて国家・国民のためにグイグイ物事を進めた点で、大久保利通は立派です。出身藩の藩主に逆らい(=裏切り)、郷土の利益よりも、日本全体の利益を図り、リアリズムに徹した点もすばらしいと思います。
台湾出兵の後始末をめぐっては、主戦論が大勢でした。しかし、北京に乗り込み、清国との交渉を見事にまとめ、まんまと報償金までせしめました。国力が充実していない当時、背伸びして日清戦争を始めていたら、ロシアやイギリスにつけ込まれていたかもしれません。早すぎる日清戦争を起こさなかった功績は大きいです。
戊辰戦争で疲弊した東北地方の振興に熱心に取り組み、有能な人材であれば幕府や佐幕派の藩からも抜擢し、オールジャパンで国家建設に取り組みました。かつての敵を許して登用し、国内の融和をはかったのも立派です。
また内務省を創設し、産業振興を重視しました。勧業博覧会を企画し、工業や農業の近代化を推し進めました。岩倉使節団に参加し、欧米諸国の政治体制を学んだのはもちろんですが、工業や農業に強い関心を持ち、しかるべき人材に技術の習得を命じています。非力な日本が、短い間に工業化を成功させ、軍事力を充実して独立を保てたのは大久保利通の功績だと思います。
徳富蘇峰は、大久保利通を「最善を得ざれば次善。次善を得ざれば、その次善を」と評したそうです。あせらず、辛抱して、じっくり課題に取り組み、現実的に一歩一歩前に進もうとしました。ときには廃藩置県のような乱暴な改革も果断に実行しましたが、可能な限り現実的な改革を志向しました。
冷徹なリアリストであり、かつ、身内びいきを極度に恐れる無私の政治家でした。人気取りに興味のなかった大久保利通は、冷たい政治家と見られていました。非情な判断もたくさんしています。傲岸不遜な面もあります。こういう政治家は、選挙向きではありません。当時は選挙制度導入前だから、大久保利通のような人が指導的な政治指導者になれたのかもしれません。ポピュリズム政治から最も遠い政治家です。こういう政治家はもう出ないかもしれませんが、こういう政治指導者が今の日本に求められていると思います。
*参考文献:
瀧井一博 2022年「大久保利通:『知』を結ぶ指導者」新潮選書
豊田恭子 2024年「アメリカ大統領と大統領図書館」筑摩選書