落選して残念だったこと:筑紫丘高校同窓会顧問を辞退

地元ネタで恐縮です。落選して残念だったことはいろいろありますが、そのひとつが母校の福岡県立筑紫丘高校の百周年記念行事実行委員会の「顧問」を辞退したことです。

数年後に百周年を迎える記念行事の実行委員会の顧問は、高校出身の国会議員、県議会議員、市長が就任します。当然ですが、落選して国会議員ではなくなったので、顧問を辞退する旨を同窓会事務局に連絡しました。

母校の百周年には思い入れがあります。多感な高校時代をおくり、よい先生とよい友人にめぐり合えただけでも母校愛を持つ理由としては十分です。それに加えて筑紫丘高校の歴史とわが家の歴史は深くかかわっています。

私のひいひいおじいさん(=高祖父:山内範造)は立憲政友会の衆議院議員でした。ウィキペディアによれば、高祖父が2期目の当選をしたのが1917年、一度落選して3期目の当選をしたのが1924年なので、ちょうど百年くらい前に衆議院議員をしていた計算になります。当時の衆議院議員も地元選挙区の利益を考えて行動し、悪く言えば「利益誘導」をしていました。

当時の典型的な利益誘導のひとつは鉄道を引くことで、「我田引水」をもじって「我田引鉄」と呼ばれていました。実家の近くにJR原田駅がありますが、原田駅と飯塚方面を結ぶ「筑豊本線」を延伸するのに高祖父は力を尽くしました。当時、飯塚側で筑豊本線の延伸に協力したのが麻生太郎元首相のひいお祖父さんで、うちの高祖父と親しかったと聞いています。

亡くなった母が子どもの頃に集落のおばあさんから「子どもの頃に山内代議士が国会から原田駅に帰ってくると、子どもたちが旗を持って駅で出迎えていた」と聞かされたそうです。ひいひい孫の世代の衆議院議員(=私)は駅で街頭演説をするかチラシを配るだけですが、百年前の衆議院議員は駅で地域の皆さんから旗を振って出迎えてもらっていたそうです。当時は国会と地元の往復も頻繁ではなく、のどかな時代だったのでしょう。

さて、もうひとつの典型的な地元への利益誘導が、旧制中学の誘致でした。筑紫丘高校の前身の旧制筑紫中学の誘致に私の高祖父が力を尽くしたと聞いています。偶然かどうかはわかりませんが、実家のすぐ近くの筑紫神社の紋章が筑紫丘高校の校章の由来のひとつです。

そして私の祖父は旧制筑紫中学を卒業しました。私の伯父は戦後すぐの新制の筑紫丘高校の1期生でした。筑紫丘高校の校舎移転が持ち上がり、在学生を中心に移転反対運動が起こりましたが、伯父は反対運動の中心になって活動した学生のひとりだったと聞いています。ちなみに伯父はのちに太宰府市長になりましたが、政治的センスは高校時代からあったのかもしれません。

そして私も同じ高校を卒業しました。本当は子どもも筑紫丘高校に入れたいなぁと思っているところです。母校の百周年を陰ながらお祝いする予定です。