東京大学の経済学者の山口慎太郎教授は「家族の経済学」と「労働経済学」がご専門です。山口教授の新著「子育て支援の経済学」がおもしろかったので、内容の一部をご紹介させていただきます。
私は大学院で「教育経済学」のコースを履修していたのですが、「家族の経済学」や「労働経済学」と重なる部分も多く、この本には授業で習った事例も出てきました。まずエビデンスに基づく結論のいくつかを抜粋すると;
OECDのデータによると家族関係支出が高い国ほど出生率も高い(例:フランスやスウェーデン)。日本は家族関係支出が低く、出生率も低い。
これは直観的に理解できますが、家族関係支出の対GDP比と出生率のグラフを見ると明らかです。OECD加盟国のほとんどでこの原則があてはまります。データで裏付けられると、安心します。やはりわが党の主張は正しく、日本は家族関係支出を増やすべきです。
ただ、例外もあります。米国は家族関係支出が低いのに、出生率は高いです。おそらく米国では保育所がなくても、移民労働者にベビーシッターと頼んだりしやすく、「保育の市場化(=一部は不法移民の闇市場)」で乗り切っているのかもしれないと私は推測しています。「アメリカ例外主義」という言葉がありますが、やはり米国の例は参考になりません。
前述の「家族関係支出」は、「現金給付」、「現物給付」、「税制優遇措置」の3つの分けられます。そのなかで「現金給付」は出生率の上昇にさほどつながらないことがわかっています。
親は子どもの「量(つまり人数)」と「質(教育等)」の両方を気にします。量と質の間にはトレードオフの関係があります。子どもの数が増えると、1人あたりの教育費が少なくなります。
社会保障制度が整った先進国においては、「現金給付」で所得が増えても、子どもの数を増やすよりも、1人あたりの教育費を増やす親が多いことがわかっています。
社会保障制度が整っていない発展途上国では、子どもに老後の面倒を見てもらわなくてはいけないので、子どもの人数は多い方が安心です。中等教育や高等教育が未発達の途上国では、小学校卒業で働き始めることも多く、早くから稼ぎ手になってくれます。従って、発展途上国では子どもの数が多いことは、メリットが大きいです。
しかし、先進国では子どもの教育投資を重視する親が多いため、現金給付が出生率を引き上げる効果は限定的です。結論としては、「出生率は現金給付政策に反応しうるが、その効果は大きなものではない」そうです。イスラエル、カナダ、スペイン、ロシア、フランス、ドイツ等では一定の効果があったものの、アメリカ、イギリス等の例では、現金給付では出生率が上がらなかったそうです。
なお、現金給付が出生率の上昇につながらなかったとしても、教育の質の向上、子育て世帯への所得再分配といった効果はあります。出生率だけを見て「現金給付はダメだ」と結論づけるのは早計であることを申し添えます。
次に「保育政策で子どもは増えるのか?」という点に関し、ドイツの事例研究によると「保育所定員の増加は出生率の上昇につながる」ことがわかっています。
ドイツでは児童手当の増加も出生率の上昇につながっていますが、費用対効果の観点では、児童手当よりも保育所定員増の方が5倍の効果があるそうです。同じ額の予算を投じるなら、現金給付よりも、現物給付(保育所定員増)の方が効果的であることがわかります。
山口氏が日本の保育所整備について試算したところ、ドイツほどではないにせよ、日本でも現金給付より保育所整備(現物給付)の方が少子化対策として有効だそうです。待機児童が多い地域では、保育所整備に力を入れることで、出生率の上昇が期待できます。日本では少子化対策の観点では、就学前教育無償化よりも、待機児童対策を優先すべきだったといえます。
山口氏によると「ジェンダー平等が出生率向上につながる」という言説も経済学的に裏付けられるそうです。山口氏は次のように述べます。
単に子育て費用を引き下げるだけでなく、妻の負担軽減に焦点を当てた政策が、出生率の引き上げに特に効果的である。
日本では「少子化対策としてのジェンダー平等」という視点は弱いと思います。しかし、ドライな経済学者の定量分析が「ジェンダー平等が割に合う」ことを実証したのは興味深いです。ジェンダー平等は権利の問題であると同時に、功利主義的な観点からも重要ということがわかります。「ジェンダー平等を実現しないのは損だ」と言ってもよいでしょう。
意外だったのは育休制度のインパクトです。「育休制度は出生率を引き上げるか?」という疑問に関しては、ノルウェーやスウェーデンの事例研究によれば、あまり効果がないようです。
育休制度についても様々な観点から見る必要があります。低価格で質の高い保育サービスにアクセスできるなら、育休制度の必要性はそれほど高くありません。女性が出産と育児のために休業する期間が長くなると、職場復帰するまでの間にスキルが落ちてしまったり、最新の情報や技術についていけなったりという問題もあり、経済学用語で言うところの「人的資本の減耗」を招きます。
他方、生後1年くらいの育休は子どもの発達に好ましい影響を与えるという認識が広く行きわたり、育休制度を推進する理由のひとつとなってきました。母乳育児の効用を強調する論者ほど、育休の重要性を強調する傾向があります。私も発展途上国の保健教育や公衆衛生の基礎を学んだので、お母さんの免疫を受け継ぐための初乳の重要性などは理解していますし、母乳哺育が望ましいという点は理解できます。しかし、山口氏によると、最近は「母乳育児でなくても支障がない」との研究も増えてきているそうです。
安倍総理が「3年間抱っこし放題」という謎のキャッチコピーで3年間の育休を提案しましたが、ほとんど支持されることもなく忘れ去られています。おそらく右派の教育改革論者が主張する「親学」あたりの影響だと推測されますが、完全に失敗でした。
育休が長すぎると前述の「人的資本の減耗」の度合いが高くなります。1年くらいなら問題は少ないでしょうが、3年も休業してしまうと職場復帰で苦労することは容易に想像できます。そもそも多くの女性は3年も休みたいと思っていません。3年間の育休制度は、女性の就業率の向上にも、出生率の上昇にもつながりません。
さらに保育所通いと子どもの発達の関係の研究によると、質の高い保育サービスは、子どもの言語の発達や行動面の改善につながる可能性があります。育休3年間を取得した場合、子どもはほとんどの時間を親と接することになりますが、子どもにとっては保育士や祖父母など複数の大人と接することが言語や情緒の発達にプラスの影響を与える可能性があります。特に適切なトレーニングを受けた保育士さんのケアを受けられる場合、プラスの効果は大きいでしょう。
次に山口氏の研究によると、子どもの保育所通いと発達の関係に関しては、特に母親が高卒未満の子どもへのポジティブな影響が大きいそうです。学歴が高卒未満ということは、統計的にはかなりの確率で低所得家庭となります。つまり「低所得家庭の子どもほど保育所通いの効果が高い」ということになり、低所得の家庭の子どもを最優先で保育所に受け入れるべきという結論に至ります。
子育て支援政策にもいろんな選択肢があります。予算の制約がなければ、あらゆる政策を実施すればよいでしょう。しかし、財政きびしき折、そうもいきません。国際比較や実証実験などを通じて、政策の根拠を慎重に考えることが大切です。
女性の権利や子どもの権利を尊重しつつ、費用対効果の観点も踏まえ、エビデンスに基づいて子育て支援政策を形成する必要があります。「おぼろげながら浮かんできたんです。46という数字が。シルエットが浮かんできたんです。」といった作法で、子育て支援政策を検討するわけにはいきません。経済学の考え方も、子育て支援政策の検討に役立つことでしょう。
*参考文献:山口慎太郎 2021年「子育て支援の経済学」日本評論社