朝日新聞社のウェブサイト「論座」に「世界大学ランキングのための大学改革という愚策」という文章を投稿しました。長いので(上)と(下)の2回に分けました。投稿して48時間は無料で読めるので、以下のURLからご覧いただけます。
https://webronza.asahi.com/politics/articles/2021012100001.html
https://webronza.asahi.com/politics/articles/2021012100006.html
なお、48時間たってしまうと有料記事になります。私の編集前の原稿をご参考までに下記に転記します(こちらはもちろん無料でお読みいただけます!)。
世界大学ランキングのための大学改革という愚策
英国の国家戦略として世界大学ランキング
安倍元総理肝いりの教育再生実行会議の提言を受け、政府は2013年「日本再興戦略」で大学改革にふれ、「今後10年間で世界大学ランキングトップ100にわが国の大学が10校以上入ることを目指す」とした。
それから7年がたつが、目標達成にはほど遠い。しかし、「世界大学ランキングトップ100校入り」をめざした事業が実施され、大学への助成制度や大学運営に大きな影響を与えてきた。たとえば、2014年から「スーパーグローバル大学創生支援」事業 *(注)が始まり、37の大学が選ばれた。政府が世界大学ランキングの評価指標に合わせた大学改革を推奨し、それに従って大学改革が進んでいる。
日本の大学改革に大きな影響をあたえている「世界大学ランキング」とはそもそも何だろうか。もっとも有名な大学世界ランキングは、タイムズ・ハイアー・エデュケーション(Times Higher Education:THE)とクアクアレリ・シモンズ(Quacqarelli Symonds:QS)の2社のランキングであろう。ちなみに2社はどちらも英国の営利企業だ。
まずはタイムズ・ハイアー・エデュケーションの最新の世界大学ランキングのトップ10を見てみよう。
1.オックスフォード大学 【英国】
2.カリフォルニア工科大学【米国】
3.ケンブリッジ大学 【英国】
4.スタンフォード大学 【米国】
5.マサチューセッツ工科大学(MIT)【米国】
6.プリンストン大学 【米国】
7.ハーバード大学 【米国】
8.エール大学 【米国】
9.シカゴ大学 【米国】
10.インペリアル・カレッジ・ロンドン【英国】
米国7校、英国3校と米英両国でトップ10を完全に独占している。次にQSの世界大学ランキングのトップ10を見てみよう。
1.マサチューセッツ工科大学(MIT)【米国】
2.スタンフォード大学 【米国】
3.ハーバード大学 【米国】
4.オックスフォード大学 【英国】
5.カリフォルニア工科大学【米国】
6.スイス連邦工科大学チューリッヒ校 【スイス】
7.ケンブリッジ大学 【英国】
8.ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン【英国】
9.インペリアル・カレッジ・ロンドン【英国】
10.シカゴ大学 【米国】
QSのランキングのベスト10のうち、米国の大学が5校、英国の大学が4校、スイスの大学が1校。米英の大学がほぼ独占しているのはタイムズ・ハイアー・エデュケーションと変わらない。
タイムズ・ハイアー・エデュケーションもQSも英国の営利企業であり、ランキングが英国の大学に有利ではないかと疑っているのは筆者だけではない。オックスフォード大学の苅谷剛彦教授(教育社会学)は著書のなかで次のように述べている。
1999年に首相の肝煎りでイギリスの高等教育グローバル化政策が本格化し、さらに2006年にはその第2段目のロケットに点火がなされた。2000年代に入って急拡大する高等教育のグローバル市場で優位な地位を占めるための政策である。このような動きが本格化する時期にイギリスの有力誌が世界大学ランキングを発表するようになったのである。THEのランキングではイギリスの大学がアメリカの大学と並んで常に上位を占める。このような動きの連動を偶然と見るか、それとも国家的なマーケティング戦略と見るか。偶然と見るにはあまりに話ができすぎている。
ここに出てくる「1999年の首相」はブレア首相だが、ブレア政権は選挙でも外交でもマーケティング手法を使うのが特色だった。英国政府は高等教育のグローバル化と市場化を進め、そのためのマーケティングの道具として世界大学ランキングをうまく活用していると言える。
英国政府は、大学を「輸出産業」と位置づけ、留学生受け入れを外貨獲得手段としてきた。留学生が落とすお金も重要だが、さらに留学生が英国式の思考様式や文化になじみ、親英的になって母国へ戻ることを期待しており、外交戦略上も留学生受け入れは重要だ。実際に英国留学組の多くは母国に帰って出世している。国家戦略として留学生受け入れ策があり、それを推進する上で英国の大学が上位に入る世界大学ランキングは重要なツールとなっている。
教育の世界に競争原理や市場原理を本格的に持ち込んだのはサッチャー首相の教育改革だ。そこで「大学市場」における市場のルールを作るのが英国政府や英国企業であれば、英国の大学が有利になって当然だ。タイムズ・ハイアー・エデュケーションもQSも英国企業なので、両社の関係者には英国の大学で学んだ人が多いだろう。自らが学んだ大学に有利なルールを定めるのは、意図的か否かは別として、自然な流れである。世界大学ランキングが、公平公正でも中立的でもなく、英国バイアスのかたまりのようなランキングでも不思議ではない。
世界大学ランキングの評価指標の偏り
ランキングの宿命ではあるが、評価指標のとり方ひとつで順位が劇的に変わる。2016年にタイムズ・ハイアー・エデュケーションのアジア大学ランキングで2015年に1位だった東京大学が一気に7位まで下がった。常識的に考えてたった1年で東京大学の教育研究レベルが急激に下がることはない。同時にたった1年でアジア圏の他大学が一気にレベルアップしたとも考えにくい。単に評価指標が変わったために、東京大学が1位から7位に転落しただけだ。評価指標を替えただけで、1位から7位に一気に順位が転落するランキングはおかしい。
また、ある指標を改善すれば大学ランキングの順位が一気に上がるとなると、人材や資金などのリソースをその指標の数値を上げるためだけに投入する大学が出てくる。教育や研究の質を上げるためではなく、評価指標のポイントを上げるためだけにリソースを投入することが、大学教育の質を上げるとは到底思えない。
たとえば、外国人教員の比率を上げると、ランキングの順位は上がる。あるいは、産業界の資金(industry income)の割合が増えるとランキングが上がる。となると、そのことに大学は重点的に取り組む。たとえば、あるポストに外国人の応募者よりも適性の高い日本人応募者がいたとしても、外国人比率を上げるという目的に照らし、より適性の低い外国人応募者を採用するかもしれない。日本人のポストドクターの就職難が問題になるなかで、日本人のポスドクよりも外国人を採用するインセンティブになってしまう可能性がある。
産業界からの収入も世界大学ランキングの重要な評価指標だが、産業界の資金が入るのは理工系の学問が中心であり、人文社会科学系の調査研究には産業界の資金は入りにくい。また、企業の資金は、基礎研究よりもすぐに製品化できる応用研究に流れる傾向があり、世界大学ランキング重視は基礎研究を軽視する傾向を強めてしまう。そもそも資金源が教育研究のレベルを左右するとは限らない。外部資金獲得のための申請書づくりや報告書づくりに追われるよりも、自由度の高い国の交付金の方が研究に役立つかもしれない。東京大学などは国の資金の割合が高いことが、世界大学ランキングの順位を下げることにつながっているが、それが問題だとは思わない。さらに世界を変える研究成果の多くは、政府による公的助成で成し遂げられてきた。インターネットもGPSも米国政府の公的資金による研究の成果である。新型コロナウイルスのワクチン開発の多くも世界中の政府助成によってなされている。
さらに問題なのは、世界大学ランキングの「英語バイアス」である。学術レベルを評価する際に英語論文の引用数だけがカウントされる。日本語やドイツ語、ロシア語、フランス語などで書かれた論文は評価対象にならない。理工系の学術論文は英語で書くことが多いかもしれない。しかし、人文系や社会科学系の論文は、文化的背景や言語表現が重要であるため、英語で書く必要性は低い。文系の学問は言葉と文化の壁が厚く、世界大学ランキングでも英語圏の大学が圧倒的に有利になる。日本の大学は理工系の評価が高い一方で、文系は国際評価が低い傾向にある。それは日本の文系の学問的レベルが低いためではなく、英語であまり発信していないためだろう。
英国が仕かけた「高等教育のグローバル化」という名の「高等教育の英語化・英国化」の戦略にまんまと踊らされているのが日本政府の大学政策ではないだろうか。苅谷剛彦教授は次のように言う。
競争(ゲーム)のルールをつくり、序列(ランキング)づくりのための評価基準を設定しているのは、高等教育市場の獲得競争に乗り出した英語圏の国々である。そこには明確な戦略思考と、政策意図が込められていた。英語という言語資本を利用できる立場にある国々が、大学という機関=制度を使って、資本や人材を集めるグローバル競争をしかけ、市場での優位を確保し、知識生産・伝達のヘゲモニーを握ろうとしているのだ。
つまり戦略のない日本が、英国の戦略にまんまと乗せらている構図だ。安倍政権で「世界大学ランキングトップ100にわが国の大学が10校以上」という愚かな目標を設定したのは、おそらく経産省あたりから出向していた官邸官僚(=文部科学省の官僚ではない)だろう。教育行政の専門家の判断とは思えないし思いたくもない。
英語圏、“準英語圏”、非英語圏のランキング
次に世界大学ランキングのトップ100にどういう国の大学が何校入っているか見てみる。タイムズ・ハイアー・エデュケーションのトップ100校の国別順位は以下の通りである。
40校: 米国
11校: 英国
8校: ドイツ
7校: オランダ
6校: オーストラリア
5校: カナダ
4校: スイス
3校: 中国、香港、フランス
2校: 日本、シンガポール、韓国、スウェーデン
1校: ベルギー、フィンランド
米国の圧倒的強さが際立つ一方、ドイツやオランダといった欧州勢がやや優勢で、アジア勢は低調である。次にQSの世界ランキングのトップ100校の国別の内訳を見てみる。
29校: 米国
18校: 英国
7校: 豪州
6校: 中国
5校: 日本、韓国、香港
3校: ドイツ、フランス、スイス、カナダ
2校: オランダ、シンガポール、スウェーデン
1校: ニュージーランド、ロシア、アルゼンチン、デンマーク、マレーシア、ベルギー、台湾
タイムズ・ハイアー・エデュケーションと比較すると、世界中の大学がランクインしており、多少はバランス感覚がある気がする。他方、圧倒的な国力と人口(3億3千万人)の米国の29校はわかる気もするが、人口(6千6百万人)の英国の18校は、ちょっと英国びいきが過ぎる印象だ。日本もQSだとトップ100に5校入っており、やや健闘している。しかし、政府がめざす「トップ100に10校」を達成しているのは米国と英国だけだ。
やはり世界大学ランキングは英語圏の国が圧倒的に有利であることが再確認できる。シンガポールや香港も公用語が英語なので「英語圏」と呼んで差し支えないだろう。あわせて、いわば「準英語圏」も有利である。「準英語圏」とは私の造語だが、「授業で英語の教科書を使ったり、教授言語が英語である国」を指すことと定義する。たとえば、オランダやフィンランドなどの小国は、母語の出版マーケットが狭いため、学術書や専門書を母語で出版することが難しく、英語のテキストや学術書に頼らざるを得ないケースが多いだろう。たとえば、母語話者の人口が1000万人に満たないような小国では、電子工学や行動経済学といった細分化した分野の専門書は母語で出版されないケースが大半だと推測される。そういう国の教員や学生は日ごろから英語で最先端の情報を得る必要があり、英語で評価される大学世界ランキングでも有利になるだろう。
日本ほど翻訳書文化が根づいた国は珍しい一方で、欧州などの小国ではエリートは英語や仏語の文学作品や学術書を外国語で読むのが当たり前という雰囲気がある。小さい頃から外国語で本を読む習慣がある国で生まれ育つと、英語に対する抵抗感も少なく、英語力は高くなる。さらに言語間の距離という点でも欧州諸国の言語は英語に近く、英語への抵抗感は少ない。そういった国の学者や研究者が英語で論文を読んだり書いたりするのは自然なことだ。自国の母語の読者層が薄いので、英語で発信しないと多くの人が読んでくれない。他方、日本語や中国語、フランス語、ドイツ語、ロシア語であれば、一定程度の母語の出版マーケットと分厚い読者層があるため、母語で論文を書くことも当然多くなる。
また、抽象的な学術用語が母語には少ないため、母語で論文を書けない国も発展途上国には多い。たとえば、ネパール語やヨルバ語(ナイジェリア)などの言語には学術用語が少ないため、旧宗主国の言語(英語)で論文を読んだり書いたりせざるを得ない。明治の先人たちが欧米の書物を翻訳する過程で抽象的概念を表す用語を多く造語したおかげで、日本人は日本語で大学教育を受け、日本語で論文を読み書きできる。「経済」「階級」「意識」といった言葉は明治期の日本人の造語(和製漢語)だが、中国にも輸出された。欧米の学術用語を上手に翻訳できたおかげで、日本では先進的な学問を多くの国民が母語で学ぶことが可能になり、日本の近代化や経済大国化、そして大学教育の大衆化に貢献した。しかし、外国語に頼らなくても済むおかげで、その代償として低い外国語の運用能力という別の問題が生じた。
以上のような背景もあり、フランス、ドイツ、ロシア、日本などの非英語圏の国は、世界大学ランキングでは圧倒的に不利になる。高等教育を母語で受けられるがゆえの不利である。日本、フランス、ドイツ、ロシアなどのノーベル賞受賞者の人数、科学技術のレベル、経済力などを勘案すれば、非英語圏の国は世界大学ランキングで損をしていることは明らかだ。このような不公平なランキングを国家の政策目標の指標にすべきではない。
英語力を除いた「真の実力」を重視すべき
世界大学ランキングの上位に食い込めなくても、英語という要素を除けば、日本のトップクラスの大学の水準は低くない。筆者の肌感覚では、日本の旧帝国大学や私大のトップレベルの大学の教育研究のレベルは国際的に決して劣っていない。
東京大学とオックスフォード大学の両方で教えた経験のある苅谷剛彦教授(教育社会学)、東京大学とハーバード大学の両方で教えたことのある吉見俊哉教授(社会学)、東京大学とプリンストン大学の両方で教えたことのある佐藤仁教授(地域研究)の3人の著書を読んで受ける印象は、東京大学と米英のトップ校の学生のレベルはそれほど変わらない(どちらも優秀)ということだ。
次に筆者の留学体験に基づく主観評価(参与観察?)になってしまうが、世界ランキングのトップ校の教育研究レベルと日本のトップ校の教育研究レベルは大差ないと感じる。QSの大学ランキングには、大学全体としての総合評価のランキングの他に、学部(専門別)の大学ランキング(QS World University subject rankings)がある。ちなみにTHEには学部別大学ランキングはない。例として「教育学(Education)」分野のQSのランキングを見てみる。
教育学(Education)部門の大学ランキング
1位 ユニバーシティー・カレッジ・ロンドン【英国】
2位 ハーバード大学 【米国】
3位 スタンフォード大学 【米国】
4位 オックスフォード大学 【英国】
5位 トロント大学 【カナダ】
6位 ケンブリッジ大学 【英国】
7位 香港大学 【香港】
8位 カリフォルニア大学バークレー校 【米国】
9位 ブリティッシュコロンビア大学 【カナダ】
10位 コロンビア大学 【米国】
トップ10は、米国が4校、英国が3校、カナダが2校、香港が1校という構成で、やはり英語圏に有利な状況は教育学に限定したランキングでも変わらない。筆者の母校ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンの教育研究所が教育学部の世界ランキング1位だ。一方、日本でランキングの順位が高い東京大学の教育学部は「51~100位」というカテゴリーに入っており、世界の教育学部のなかではトップレベルとは見なされていない。理由は単に英語の問題だろう。日本の教育学界では、英語の論文を書く必要性も習慣もあまりない。おそらくそれだけだ。
教育学のなかでも、教育経済学のように計量可能な分野は国際比較しやすいので、英語で論文を書くケースも多いかもしれない。しかし、国語教授法とか、教育法規とか、教育行政といった分野は、社会的・文化的背景が重要であり、国際比較は難しく、日本の事例について英語で論文を書く必要性は少ないだろう。
ロンドン大学で講義を受けたり、グループ討論をしたり、修士論文を書いたりした経験を踏まえると、英語のハンディキャップさえなければ、日本のトップ校より高度な学問をしているという感じはしなかった。日本の教育学者の書いた本や論文より、英語で書かれた教育学の本や論文の方が高度であるとも限らない。日本の教育学の水準はかなり高いと思う。
日本で伝統的に教育学に強いのは、東京大学のほかに戦前の高等師範学校の流れをくむ筑波大学や広島大学などである。この3校の教育研究の水準は、英語という要素を除けば、世界で通用するレベルだと思う。たとえば、広島大学の教育大学院は、発展途上国の教育研究に力を入れており、「英語」という要素を外せば、教育学部の世界ランキングのトップ50校に入る実力が十分あると思われる。
しかし、学術レベルが高くても、英語で論文を発表し、外国人教員の比率を上げないことには世界大学ランキングの上位には入らない。大学世界ランキングの順位を上げることを目的とすれば、外国人教員や留学生を増やさなくてはならない。外国人教員と留学生を増やすために、英語で開講される講義が多くなる。
たとえば、外国人留学生向けに日本に強みのある工学部や日本研究などのコースを英語で開講してもよいだろう。そういったコースには一定のニーズがある。しかし、学生の大半が日本人のコースを、無理して英語で開講する必要はない。そもそも英語の講義だけを受けたければ、海外の大学に行った方が手っ取り早い(ついでに海外生活で異文化も体験できる)。母語である日本語で大学教育を受けられることは、多くの日本人にとって大きなメリットである。母語で大学教育を受けられることが、大学教育の普及に大きく貢献してきた。
人間は言葉で考える。言語が思考を規定する。高度な学問を母語で学べるのは、その点からも強みだ。言語の多様性は、人類全体にとって価値がある。いまの「大学のグローバル化」は、ほぼイコール「大学の英語化」に堕している。いわば英語帝国主義的な大学のグローバル化が、言語の多様性を壊しつつある。そして「言語が思考を規定する」という前提に立てば、言語の多様性が失われることは、思考の多様性が失われることである。世界の多様性を守るために、日本語と日本文化を守っていくことは、人類全体への貢献である。大学教育の英語化を進めることは、日本語や日本文化を守り発展させる上でも、世界の言語の多様性を守る上でも、大きな禍根を残す。
慣れ親しんだ母語の基礎の上に、母語で高度な学問を学べることは、外国語のハードルを乗り越えた上でないと高度な学問を学べない国の人たちにはない利点である。母語で高等教育を受けられない人が、世界にはかなりの割合で存在する。世界に数千ある言語の中で、複雑な近代科学を論理的に書き記すに足る語彙を持っている非ヨーロッパ言語は少ない。先人たちの努力のおかげで、日本語や中国語、韓国語などは恵まれた部類に入る。
筆者はフィリピンの大学に1年留学したことがあるが、英語が得意でないフィリピン人の大学生が多数いることを知り、彼らを見て気の毒に思った。日本人は英語ができなくても社会生活や職業生活においてさほど困らない。しかし、フィリピン人で英語ができないと、社会生活を送る上で多くの困難に直面する。フィリピン人のエリートは英語で教育を受けているので、グローバルな競争で有利な面もある。その一方、英語の不得意なフィリピン人は、大学教育を受けられる選択肢が極端に少なくなる。日本人なら英語が苦手でも、物理学や経済学などの高度な学問を母語で学べる。しかし、フィリピン人で英語が苦手な人は、物理学や経済学を学ぶのにも不自由する。エリートのフィリピン人にとっては英語はハードルではないかもしれない。他方、非エリートのフィリピン人にとっては英語のハードルは高く、大学教育へのアクセスが限定され、大学教育の大衆化のハードルとなる。
日本にも英語公用語化を唱える人がいるが、筆者は「英語公用語化=日本の英語植民地化」だと思う。英語公用語化は、英語が得意な国民とそうでない国民の分断を招く。平均的な国民の教育水準を高めるには、日本語で教育を受けられる環境が大切だ。
もし日本で「なるべく多くの講義を英語で開講すべき」といった方針をとれば、一部の科目の学問的レベルは下がるだろう。理工系や経済学などの学問は、英語でも日本語でも大差ないかもしれない。しかし、文化的背景や言語表現が重要な人文系や社会科学系の学問では、日本に関わるテーマを英語で教えるとレベルが下がる可能性が高い。
日本政治が専門の政治学者が「外国人と日本人の混合クラスで、英語で日本政治を教えると、どうしても内容が薄くなりレベルが下がる」という趣旨のことを言っていた。日本人(または日本語がネイティブ並みの外国人)を相手に日本政治を講義する場合、「衆議院」とか「自民党」とか「党議拘束」といった言葉を何の説明もなくサラッと使える。しかし、日本語が得意でない外国人学生に日本政治を教える場合、非常に丁寧に用語を定義し、それぞれの母国の議会のイメージとの乖離を意識して、説明する必要があり、余計に時間がかかる。日本人学生、英国議会モデルの国から来た留学生、米国議会モデルの国から来た留学生、民主的な議会のない国から来た留学生など、議会制度についてのイメージや理解がバラバラで共通の前提がない場合、細かいところから説明を始めることになり、深い議論をするには時間がかかる。おそらく日本史や日本文学などの講義の難しさも日本政治と同様であろう。日本人向けの講義は日本語で行う方が、より深い学びになるだろう。
韓国の大学事情について書かれた本によると、韓国の大学は日本以上にグローバル化を進めている。韓国では大学教授の8~9割が海外で学位を取得した留学帰りで、英語で博士論文を執筆した教員が大部分を占める。それでも英語の講義では、同じ内容を韓国語で話した場合の7割程度しか伝えられず、深みのある講義ができないという。概念的な話や高度で専門的な内容になるほど、英語でかみ砕いて説明することが難しく、韓国語で聞いても難しい内容をネイティブでない教員から英語で聞くのだから、理解度は低下する。同じことは日本でも起こる。
日本語でも英語でもどちらの教授言語でも学生の専門知識が向上すればよいが、日本語なら理解できる科目が、英語になると理解できないとなると、学生の専門知の低下を招く。日本語という楽な手段を捨てて、英語で無理やり教えた結果、英語力は向上しても専門能力が下がっては意味がない。世界大学ランキングの順位を上げるために無理して英語の講義の割合を増やすと、専門知のレベルが下がるリスクが高い。
もちろん英語で開講される講義も一定割合あってもよいし、その意義は否定しない。しかし、そのためには十分な英語力を有する教員と学生という条件が整っている必要がある。英語力が不十分な教員が、これまた英語力が不十分な学生に英語で講義しなくてはいけない状況は避けた方が賢明だろう。大学世界ランキングの順位を上げるために、無理して英語で授業を開講し、学生の専門知が低下するという状況が生じるのは問題ではないだろうか。
日本の大学がめざすべき道
世界大学ランキングの順位を上げることより大切なことがある。日本語を大切にした教育と研究を行い、その上で世界に貢献できる研究と人材育成をできる大学こそ必要だと筆者は考える。苅谷教授は次のように言う。
日本の大学に活路はないのでしょうか。世界のトップクラスの大学に伍して、高度な教育・研究を維持し、世界に存在感を示すとともに、この国の未来を担う人材を世に送り出す、そんな「教育力」を保ち続けることは可能なのでしょうか。
非常に難しい問いではありますが、私は可能性はあると考えます。欧米の大学にできないことをやる。当たり前に聞こえますが、それしか方法はありません。
苅谷教授は英国の大学を例にしてその国独自の強みを生かす戦略が必要だと説く。
実は、その国独自の強みを生かす戦略は、世界中で試みられています。いま、豊富な資金、恵まれた環境で最先端を学びたい人材は、現状ではアメリカにどんどん流れていってしまう。そこで、イギリスの大学は「ヨーロッパに関してはイギリスで学ぶほうがよい」「インドや中東、アフリカのことならイギリスで学べ」といった地理的条件や過去の歴史にならう利点を前面に押し出しています。
筆者はインドネシアに赴任した経験があり、インドネシア地域研究の本を集中的に読んだ時期がある。そのときわかったのは、インドネシアの地域研究が盛んなのは、旧宗主国のオランダ、日本、米国、オーストラリアということだ。日本はインドネシアを含む東南アジア研究で蓄積があり、世界で通用する研究が行われている。そういった強みは売りにできる。
また、筆者の専門だった発展途上国の教育研究では、米国の大学は中南米に強く、英国の大学は旧英領のアフリカとアジアに強い、という相場観があった。日本はやはり東南アジアの教育研究の蓄積があり強みにできるはずだ。
さらに世界でもっとも少子高齢化が進んだ先進国として、少子化問題や高齢者問題の研究を行い、それを世界に発信していけば最先端の学問で世界に貢献できる。苅谷教授の言葉を借りれば「英語が通じない不自由さ」から「日本語ができるアドバンテージ」へと転換することが日本独自の貢献につながる。苅谷教授は次のように述べる。
英語圏やそれに近い西欧諸国の大学との違いをむしろはっきり認識し、日本にしかできない付加価値の教育と研究を表に出していく方が、身の丈に合っている。その限りでなら英語で教えることにも意味がある。
多様性はそれ自体に価値がある。学問の世界では、異質なもの同士が出会うところから、新たな発見やイノベーションが起こる。イノベーションといっても理工系の技術的イノベーションだけではなく、社会的イノベーションや組織的イノベーションも大切である。世界と人類に日本独自の貢献をすることが、本来めざすべき大学の「グローバル化」だと思う。英国の営利企業が作った尺度にあわせて大学を作り変えることが、大学の「グローバル化」という現状は情けない。
世界大学ランキング入りめざして、英国企業が作った評価基準にあわせて大学を「改革」する弊害は大きい。英語帝国主義とでもいうべき大学ランキングを重視するのはもうやめるべきだ。大学教育の評価基準は、日本独自のものであってよい。あるいは、日本が、ドイツやフランス、ロシア、中国などに呼びかけて、英語圏偏重ではない大学評価基準づくりをリードしてもよいかもしれない。
そもそも「大学ランキング」という発想自体を疑ってもよいかもしれない。「食べログ」じゃあるまいし、大学の総合ランキングに意味があるのか疑問である。ある大学は工学部が強かったり、ある大学は歴史学が強かったりと、それぞれに個性や特色がある。たとえば、ドイツ文学、インド史、日本文学史といった専門分野は国際比較の対象にはなりにくいが、そういう学問も含めて大学の総合的な比較を行うことが、どこまで意味があるだろう。大学の総合ランキングは便利な指標であり、情報の複雑性を縮減する効果はあるが、しょせんはその程度の価値しかない。
偏差値教育で育った日本人は、偏差値と似たランキングをついつい信頼してしまうのかもしれない。偏差値や大学ランキングで志望校を選ぶのは簡単だし、予測可能性が高いため、受験産業や教育産業には便利だ。しかし、文部科学省や大学までが、それに乗っかる必要はまない。大学の自治は重要である。どこかの大学が世界ランキング上位をめざすのは自由だ。しかし、文部科学省が率先して世界ランキングを上位をめざすために補助金を出すのはバカげている。
苅谷教授の著書のなかでデンマークの教育学者のビエスタ氏の考え方が紹介されている。
(ビエスタ氏は)世界大学ランキングなどの順位に踊らされる大学群を「グローバル大学」と皮肉を込めて表現し、そこでは教えることの重要性が失われていると批判する。ここでの議論にとって重要な彼の指摘は、外部からの資金獲得や優秀な学生や教員のリクルートに追われる(それゆえ、そこで参照される世界大学ランキングの順位に拘泥する)グローバル大学は、その内部ではなく、高等教育市場という外部に参照点を置いているという指摘である。市場での競争やそこでの相対的な地位が重要になっていることがその証左だという。学生を顧客とみなし、その満足を最優先するサービス産業化したグローバル大学は、「教えること」の重要性や、大学として何を教えるべきかを判断する内部の参照点を持たないというのである。それは顧客=学生の満足度を上げるために、「役に立つ」学習を優先し始めた大学の姿である。
世界大学ランキングという「外部の参照点」にふり回される大学が、理想の大学だろうか。学生を「お客様」扱いする大学は、本当に学生のことを考えているのだろうか。大学がサービス産業化することが、社会的に望ましいのだろうか。
結局のところ、いわゆる「大学のグローバル化」は、「大学の商品化」あるいは「大学の市場化」である。「大学のグローバル化」は、新自由主義的な手法を使い、企業経営の用語を使い、効率性重視で進める「大学改革」にほかならない。そろそろ「大学のグローバル化」という幻想を離れ、世界大学ランキング信仰から脱却する時期だ。大学世界ランキングを国家として重視する必要はなく、文部科学省が「世界ランキングの上位をめざせ」と尻を叩く必要もない。世界ランキングを重視して大学改革を進めることは、メリットよりもデメリットの方が大きいことを認識してよい時期だ。
- 注意:オックスフォード大学の苅谷剛彦氏は、「スーパーグローバル大学」という名称が和製英語であり、英語としておかしい点を指摘している。文部科学省の正式な英訳では「Top Global University」となっており、同省も「スーパーグローバル大学」では英語として通用しないことは理解している。教育再生実行会議の委員には教育の専門家ではない財界人や文化人が多く含まれ、そういう人たちへの「ウケ」を狙って和製英語の「スーパーグローバル大学」などという専門家からバカにされかねない用語を使ったものと邪推される。教育再生実行会議とその前身の教育再生会議の委員は、教育の専門外の委員の割合が高く、エビデンスに基づかない「床屋談義」レベルの教育論がしばしば見られ、教育専門家の多くは評価していないことは付記しておきたい。