教育を考えるシリーズ(5):教育への過剰な期待

教育を考えるシリーズの第5弾です。朝日新書「リベラルは死なない」からの抜粋です。


教育への過剰な期待〜「何に力を入れないか?」という観点

日本人は「教育好き」といってよいだろう。社会の問題の多くを教育によって解決できると考え、「〇〇教育」を次から次に発明し、学校教育に取り入れようとする傾向がある。

「〇〇」にはさまざまな課題が入る。国際理解教育、環境教育、消費者教育、金融教育、主権者教育、防災教育、プログラミング教育など、近年「必要だ」と主張される「〇〇教育」は数え上げたらキリがない。どれも重要であり、どれもすべての子どもたちに教えた方がよいだろう。

しかし、すべての「〇〇教育」を学校教育に取り入れれば、学校の授業時間は際限なく増えていき、子どもと教員の負担は限度を超えてしまう。

それぞれの分野の専門家や政治家は、カリキュラム全体を見て判断しないため、「何かを加えるためには、何かを削る必要がある」という発想を持たずに、単に「〇〇教育を追加せよ」と主張する。

総合的に考えれば、国語や算数といったすべての子どもにとって必要な教科を削減してまで「〇〇教育」を追加するのは簡単ではない。もちろん国語や理科の教科のなかで「〇〇教育」の要素を埋め込んで教えるのは有効であるが、それにも限度がある。

「教育への過剰な期待」は、学校現場への過剰な要求にどうしてもつながりがちである。近年の緊縮的な新自由主義的行政改革では「削ること」が主だが、教育改革だけは例外的に「足すこと」が主になる傾向がある。「何に力を入れるのか」を考えるのも重要だが、教育への過剰な期待を考慮すれば、「何に力をいれないのか」も重要である。

先に触れた小学校での英語教育の教科化は、その象徴である。英語教育の教科化は、経済界の要望も強く、保護者の間でも人気がある。しかし、小学校にはもともと英語教育(外国語教育)の専門家はいない。ろくな準備もなく拙速に小学校の英語教科化を進めたのは、繰り返すが、誤りである。

小学校教育に英語の授業をつけ加えるために、国語や算数といった科目を削るのは問題だし、英語の授業を増やすために土曜日登校を増やすといった対応を迫られるのであれば、教員と子どもたちの余裕を失わせることになる。

そもそもの話、本当に英語の教科化が必要だったのか、英語の授業を足すことにより何が失われるのか、そういった議論と検討が十分になされたとは思えない。仮にさまざまなデメリットがあってもそれでも英語を教科化するのであれば、その前に小学校教員に対して英語教授法の研修を十分に行い、万全の準備の上で実行に移すべきであったが、実態はそうなっていない。

小中学校という義務教育段階においては、「すべての子どもに必要な知識や態度」を身につけさせることが肝要である。国語、算数、理科、社会といったもっとも基礎的な教科の基礎知識を徹底して習得させることを優先すべきである。

こうした観点から考えれば、小学校の英語教育の教科化などは不必要な改悪である。さまざまな「〇〇教育」を追加して教育現場の負担を増やすことは控えるべきであり、どうしても必要な知識を厳選し、基礎を徹底することこそ義務教育の目標とすべきである。

他方、日本では何か問題があるとあれもこれも教育のせいにする傾向がある割に、教育予算の増額には国民的合意が成り立っていない。教育費負担を「自己責任」とみなす一方で、何か問題があれば「教育の責任」が問われる。

教育重視というのであれば、まずOECD加盟校で最低水準の公的教育支出を増やし、教員の増加や非正規教員の正規化を進めるべきである。そのうえで、カリキュラムを厳選して質を高め、教員の研修を充実させるといった地道な「改善」が求められる。

悪いところを抜本的に「改革」するというより、現場の声をいかした漸進的な「改善」こそが日本の教育行政に求められているのではないだろうか。派手な「教育改革」より地道な「教育改善」を推進すべきである。

*ご参考:井手英策編著 2019年「リベラルは死なない」朝日新書