情報機関員キッシンジャーとソフトパワー

国際政治の分野で「ソフトパワー」という言葉が使われるようになったのは、ここ三十年くらいのことでしょうか。国家安全保障会議議長や国防次官補を歴任したハーバード大学のジョセフ・ナイ教授が「ソフトパワー」という概念を提唱して、一気に世界中に広まりました。

「ソフトパワー」の対義語は、「ハードパワー」です。「ハードパワー」は、軍事力や経済力などを指します。一方、「ソフトパワー」とは、その国の文化や政治的価値観、政策の魅力などにより支持や共感を獲得する力のことです。その後「スマートパワー」とか「シャープパワー」といった派生語も出てきましたが、「ソフトパワー」という概念が現実の外交政策にも大きな影響を与えてきました。あきらかに中国外交にも影響を与えています。

しかし、歴史家のニーアル・ファーガソンの「キッシンジャー」(日経BP社)を読んで、ジョセフ・ナイが「ソフトパワー」という言葉を使う以前から、アメリカはソフトパワー外交を強力に進めてきたことがよくわかりました。そしてキッシンジャーは若い頃からソフトパワー外交に強く関与していたことも知りました。

私は誤解していたのですが、キッシンジャーは「学者が実務家になった」ケースだと思っていました。実は逆でした。実務家だったキッシンジャーが、大学に入り直して学者になり、再び実務の世界に戻った、という事実をこの本で知りました。

ドイツで生まれ育ったユダヤ系のキッシンジャーは、ナチスの迫害を逃れてアメリカに難民として移住します。第二次世界大戦が勃発すると、陸軍に召集されます。ドイツ語が母語ということもあり、ドイツ語をいかした情報(インテリジェンス)関係の対敵諜報部隊(CIC:Counter Intelligence Corps)に配属され、「スペシャル・エージェント」として活躍します。戦後もドイツに残って占領行政に関わり、ナチス戦犯の捜査や公職追放を担当したり、占領行政をスムーズにするための情報工作に携わります。ゲシュタポ士官の逮捕により勲章ももらっています。

キッシンジャーは国際政治学者になる前にすでにインテリジェンス・オフィサーとして実務経験を積んでいました。しかも陸軍に非常に愛着を持ち、復員兵擁護法(GIビル)でハーバード大学に入学したあとも、予備役として訓練に参加しています。

ファーガソン氏によると、キッシンジャーは次のように考えました。

心理戦略委員会の仕事でドイツへ行った際に、心理戦を遂行する最適の方法は非公式な文化交流だと気づいた。そしてハーバードのキャンパスほどそうした交流に適した場所はない。

キッシンジャーは1951年にハーバード大学で「ハーバード国際セミナー」を創設し、「アメリカが友好関係の構築を望む国々における文化的リーダーたちの理解を高める」ことを目的として、夏休みに世界中から30~40人の若いリーダーを招き、アメリカに好意的な政治指導者やオピニオンリーダーを育成する仕事に関わります。

ハーバード国際セミナーは1951年から1968年までの間に外国の若手リーダーのべ600人を招き、そのなかには後に母国で政治的影響力のあるポジションに就く人が多数出ました。中曽根康弘首相、フランスのジスカールデスタン大統領、マレーシアのマハティール首相などがそうです。キッシンジャーがほとんど個人的に始めたプログラムのわりに、大きな成果があがったといえるでしょうか。これこそ「ソフトパワー外交」の一例です。

1950年代は朝鮮戦争という熱戦もありましたが、冷戦の初期でもあり、アメリカとソ連の争いは、ソフトパワー外交の分野でも熾烈でした。アジアやアフリカの植民地解放闘争の時代でもあり、ソ連の共産主義イデオロギーには魅力がありました。ソ連の「平和攻勢」に対抗するため、アメリカは第二次世界大戦中に開発した「心理戦」の手法を駆使し、アメリカ文化情報局(USIA)やCIAを通して世界中で反共活動を展開しました。

ソ連の民族解放闘争の支援がかなりの成功をおさめるなか、インドネシア、タイ、トルコなどを西側につなぎとめるため、人物交流プログラム、文化交流、観光、図書館、映画上映、ラジオ番組(ボイス・オブ・アメリカ)など様々な手段で「心理戦」を展開し、アメリカへの支持を獲得しようとしました。日本国内でもさまざまな文化交流や英語教育のプログラムが行われました。

そういった1950年代の「心理戦」または「ソフトパワー外交」にキッシンジャーは当事者として全面的にコミットし、その後でニクソン政権の大統領補佐官となったわけです。キッシンジャーは単なる学者ではありません。陸軍のカウンターインテリジェンス部隊のインテリジェンス・オフィサー出身でもあります。そのおかげで現実的で緻密な外交ができたのかもしれません。

ニーアル・ファーガソンの歴史書はおもしろいものばかりですが、細部にわたる記述がおもしろく、この本もお薦めです。

*参考文献:ニーアル・ファーガソン 2019年「キッシンジャー」日経BP社