日本経済新聞社の元モスクワ特派員の古川英治氏(現編集局国際部次長兼編集委員)が書いた「破壊戦:新冷戦時代の秘密工作」という本がおもしろかったです。ロシアの情報機関や国営放送による世論操作(特にフェイクニュース拡散)やサイバー工作の怖さがよくわかります。
国防次官補やハーバード大学教授などを務めたジョセフ・ナイ氏が、「ソフト・パワー」という概念を外交の世界に取り入れて20年ほどたつでしょうか。軍事力や経済力のような「ハード・パワー」に対し、「ソフト・パワー」は簡単にいえば「強制や報酬ではなく、魅力によって望む結果を得る能力」と定義されます。
欧米諸国は「ソフト・パワー」に関しては優位にありますが、ロシアや中国のような非民主的な権威主義国家は「シャープ・パワー」で対抗しています。「シャープ・パワー」とは、フェイクニュースの拡散や世論操作、サイバー攻撃、外国の政治家の買収などを含むアグレッシブな手段による力です。
ある意味で「シャープ・パワー」は、「ハード・パワー」と「ソフト・パワー」の中間であり、戦争に至らないけれど戦争に近い状況とも言えるかもしれません。古川氏が「破壊戦」と呼ぶのは、ロシアや中国の「シャープ・パワー」の脅威に警鐘を鳴らすためだと思います。日本も同じように「シャープ・パワー」を行使すべきとは思いませんが、「シャープ・パワー」への防衛策は必要です。
この本は、メディアの公開情報や関係者取材に基づいて、ロシアの情報機関(軍情報部GRU、連邦保安局FSB)や国営放送局が行った世論操作やサイバー攻撃の具体例を示しながら「破壊戦」の実態に迫ります。
ウクライナで起きたマレーシア航空機撃墜事件でロシアの関与を否定するためのフェイクニュース拡散、ヒラリー・クリントン候補の選挙活動を妨害するためのネットを使った世論工作、イタリアやオーストリアの極右政治家の買収、ロシア国営放送RTが全面的に関与したフェイクニュース拡散や世論操作など、知れば知るほど恐ろしくなります。
今のところロシアの秘密工作の主なターゲットは米国や欧州です。日本がターゲットになっていないのは、日本語の高い壁(*世界標準語の英語の壁はやすやすと超えられます)と安倍政権のプーチン寄り親ロ外交のおかげかもしれません。他の西側諸国が、ウクライナ問題などで激しくロシアを批判して経済制裁を課すなかで、安倍政権だけは親ロシア的な外交を続けてきたという要素が大きいと思います。
古川氏は次のように言います。
ロシアやヨーロッパで取材をしながら、私はしばしば日本政府の対ロ外交に苛立ちを覚えた。
ウクライナ侵攻、そして各国の選挙への介入やサイバー攻撃に対する欧米の対ロ制裁をよそに、前首相の安倍晋三は7年で11回、ロシアを訪問した。ヨーロッパで第二次世界大戦以降、初めて化学兵器が使われた2018年3月のスクリパリ毒殺未遂事件を巡っても、欧米諸国が連帯を示したロシア外交官の追放に日本は同調しなかった。そんな親ロ外交にもかかわらず、懸案の北方領土交渉は進まなかった。(中略)
プーチンとの関係をテコに交渉を動かそうと、対ロ配慮一辺倒だった安倍に対し、ロシアは世界戦略の中で日本の利用価値を冷徹に探る。欧米と対立するなかで、訪ロを繰り返した日本の首脳らの姿はロシアが孤立していないことを世界に印象付ける格好の材料になった。交渉でロシアが日本に突きつけてきた要求は、アメリカ主導の秩序を崩す戦略の一環にほかならない
2016年に私が取材したあるヨーロッパの外相は、日本にこんな忠告をしていた。
「主張を弱めれば、逆にロシアを攻撃的にする挑発になる」
安倍はそんなワナにはまったのだ。
ちなみ古川氏は日本経済新聞社の記者であり、毎日新聞や朝日新聞のようなリベラルなメディアの記者ではありません。どちらかというとアベノミクスを評価する日本経済新聞社の記者です。その日経新聞モスクワ特派員の目にも、安倍外交の親ロシア姿勢は行きすぎで、ロシアにていよく利用されただけだった、と映っているようです。
昨年ロシアは憲法を改正し、「ロシアの主権が及ぶ領土の引き渡しに関する協議はできない」という趣旨の条項が加わりました。プーチン政権が北方領土を返還する気がないことが明確になりました。安倍総理が憲法改正をめざして挫折したのと対照的に、プーチン大統領は憲法を改正して北方領土交渉への熱意のなさを示しました。
プーチン大統領を信頼した安倍総理が得たものはなんでしょう。当面は北方四島は戻ってきそうにありません。日ロ経済協力はうまく行ってないようです。ウクライナ紛争をめぐる対ロ制裁では、日本は西側諸国の結束を乱す役割を果たして、プーチンを支えました。ふり返ってみると安倍政権の対ロ外交は割に合わない外交だったと思います。
*参考文献:古川英治 2020年 『破壊戦:新冷戦時代の秘密工作』 角川新書