韓国に2泊3日の出張に行き、韓国の各政党の政治家や企業人とお会いしてきました。戦時中のいわゆる「徴用工」問題の判決で日韓関係が緊張している真っ最中の訪韓だったので、どうしてもその件が話題になりました。
日本政府の公式見解は、1965年の日韓請求権・経済協力協定により解決済みというものです。その立場は変える必要はないし、国際法的にも日本側の主張が通ると思います。「とはいえ、戦時中という異常な事態であっても、過酷な労働条件で働くことを余儀なくされた旧朝鮮半島出身労働者が大変なご苦労をされたことは遺憾である」といった趣旨のことを小泉政権は言っていました。日韓国交正常化に際して日本は莫大な経済協力を行い、韓国国内の戦時被害者にはその金額の中から韓国政府自身が損害を補償するというのが国際約束でした。
したがって、日本側も小泉政権時の見解のように「不幸な出来事であり遺憾ではあるが、国際法的には解決済み」と言っていればよいと思います。必要以上に韓国側を刺激する厳しいコメントを政治家や政府要人が言うべきではありません。
日本の政治家が国内向けに歯切れのよい言葉を並べると、結果的に韓国の親日派が立場を失います。一番苦労しているのは、韓国の親日派です。すでに弱体化しつつある親日派をこれ以上追い詰めないためにも、日本の政治家は国内向けに強硬な発言をするのは控えるべきです。国内向けの発言のつもりでも、必ず韓国国内で報道され、韓国の国民感情を刺激します。
韓国側でもこの問題をあおって政治目的を達しようとするグループがあります。ナショナリズムをあおって世論を味方につけ、韓国の現政権を批判しようというグループもいるでしょう。日本には植民地支配の加害責任がありますが、事実上の戦後賠償が済んでいるので、解決済みの問題を再び持ち出されても、政府としてそれに応じる必要はありません。すでに国際法的に処理済みの案件を持ち出され、日本企業が支払いを迫られるようなことがあれば、日本企業は韓国国内で経済活動をしなくなるかもしれません。日韓の経済交流にブレーキをかけることになります。個人的には、日本企業が道義的・社会的責任を感じて自主的に支払うのも一つの手だと思いますが、それは政府が強いることではありません。
日韓の双方の政治家に求められるのは自制です。お互いの国民感情をあおることはやめ、強い言葉で相手を批判し合うのはやめるべきです。ゆっくり時間をかけて冷静に解決策を探り、一時の国民感情の盛り上がりに流されないようにしなくてはなりません。日韓はこれからも良好な関係を続けることが、お互いにとって国益です。排外的なナショナリズムをあおり合うのは非生産的です。
中曽根康弘元総理が、かつて「新潮45」の2012年11月号に「宰相に外交感覚がない悲劇」という文章を寄稿されました。そこから抜粋します。
中庸で健全であるべき愛国心に対して、偏狭なナショナリズムが反作用的に出てくるのはありがちな話だが、国益を長期的観点から考え、短期的に起こる過度のナショナリズムに対して身を以て防波堤としてこれを抑えるのは政治の役割である。当然のことながら、相手国の言動や行動に刺激され、日本のナショナリズムを扇動するようなことがあってはならないし、国民への丁寧な説明と熟慮を重ねた冷静な外交こそが求められる。
まったく同感です。日韓の政治家が、偏狭なナショナリズムに対する防波堤にならなくてはいけないと思います。政治家がナショナリズムをあおるのは最悪の罪だと思います。最後にアメリカの外交官のジョージ・ケナンの言葉から引用して終わりにします。
これらの最近の戦争における体験に基づいて、人間性についてある悲しむべき結論をもたざるを得なかった。そのひとつは、苦難は必ずしも人間をよくしないということであり、もうひとつは国民というものは政府より合理的であるとは限らないこと、世論あるいは世論として通用しているものは、政治のジャングルの中でいつも鎮静剤の役割を果たすとは限らないことである。(中略)世論といわれているものが、しばしば大衆の意見を全然代表せずに、政治家、評論家およびあらゆる種類の宣伝家など、(中略)非常に騒がしい少数の連中の利益を代弁しているのではないかと思う。この種の人びとは、軽率なまた盲目的愛国心をあおるようなスローガンに逃げ道を求める。というのは、それ以外のことを理解する能力をもたないからであり、これらのスローガンを掲げる方が短期的な利益を得るためにはより安全であるからであり、さらにまた、真理というものは複雑で、決して人を満足させず、ジレンマに充ちており、常に誤解され濫用されやすいものなので、観念の市場で競争するには往々にして不利な立場に立っているからである。短慮と憎悪に基づく意見は、常に最も粗野な安っぽいシンボルの助けをかりることができるが、節度ある意見というものは、感情的なものに比べて複雑な理由に基づいており、説明することが困難なような理由に基づいている。そこで、盲目的愛国主義者というものは、いついかなる場所を問わず、己が命ずる道を突進してゆくだけであり、安易な成果をつみとり、他日誰かの犠牲においてその日限りの矮小な勝利を刈り取り、それをさえぎる者は誰であろうと大声で罵倒し、人類の進歩を待望しながら傍若無人の踊りをおどって、民主的制度の妥当性に大いなる疑惑の影をなげかけるのである。そして人びとが、大衆の感情を扇動したり、憎悪、猜疑および狭量の種を播くこと自体を犯罪として、おそらく民主的政府擁護に対する最悪の裏切り行為として、摘発することを学ばない限り、このようなことは、今後も引き続いて起こるであろう。
*ご参考:ジョージ・F・ケナン「アメリカ外交50年」