今日で45歳。ヒラリー・クリントンのように。

ついに本日、45歳の誕生日をむかえました。何となく節目のような気がします。成人して25年(四半世紀!)。衆議院議員在職10周年(浪人中を含むと政治活動14年目突入)。社会人になって22年になります。

ふりかえると落ち着きのない人生でした。高校を卒業して上京し、国際基督教大学(ICU)に入学し、途中で1年間ほどフィリピンに交換留学。新卒でJICA(国際協力事業団:当時)に就職し、フィリピンを含む東南アジアを担当しました。JICAというのはよい組織で、フィリピンに留学していたら、すぐにフィリピン担当にしてもらえたし、すぐフィリピンに出張させてもらえました。わかりやすい組織です。

JICAの仕事はやりがいはあるし、周囲の上司や先輩にもめぐまれ、幸せな社会人生活を送っていました。社会人としての基礎を丁寧に上司や先輩方が指導して下さったし、いっしょに仕事をする各省庁の技官や大学教授、コンサルタント会社などの皆さんとのやり取りも勉強になりました。新人のころの上司は、私が起案した決裁文書を真っ赤になるまで添削指導してくださって、文章の書き方、根回しの仕方、電話のかけ方など、基礎的なことからミッチリ指導してもらえました。JICAで働いたのは5年に満たないほどでしたが、本当によい勉強をさせていただきました。

しかし、高校生くらいから「難民キャンプで人道援助」といった現場の仕事にあこがれていました。10~20代のころは、紛争地や被災地で泥と汗にまみれながら、命の危険もかえりみず、難民に食糧を配給したり、子どもたちのために学校を建てたりする仕事以上に「かっこいい仕事」はないと思っていました。JICA職員の行政官的な業務よりも、国際援助の最前線の現場のフィールドワーカーにあこがれてNGOに転職しました。NGOの仕事も好きでしたし、インドネシアやアフガニスタンで働くこともでき、とても勉強になりました。

いま思えば、仕事をしていていちばん楽しかった時期はNGOスタッフ時代かもしれません。がんばったし、それなりに成果も出しましたが、失敗もしました。NGO時代にわかったのは、残念ながら「好きな仕事」と「向いている仕事」は必ずしも一致しないということです。自分が長年あこがれていた仕事にあんまり向いていないということに気づいたときには、打ちのめされました。しかし、最終的には「好きだけど向いていない仕事」よりも「そこそこ好きだけど向いている仕事」の方がいいと思うようになりました。

いろいろ思うところがあって、30歳を超えてからイギリスの大学院に留学し、発展途上国の教育政策や教育援助について学ぶことにしました。修士論文のテーマは「東チモールとルワンダにおける紛争後の教育システムの復興」というものでした。東チモールやルワンダの紛争で破壊された教育インフラと分断されたコミュニティをいかに復興するかというマニアックなテーマですが、発展途上国の平和構築や紛争後の復興に興味があり、楽しい留学生活でした。

人生をリセットしたような大学院留学をへて、帰国後1年ほどで衆議院選挙に立候補することになりました。政治の世界に入ってからは、政党もかわり、選挙区もかわり、いろんな出会いと別れを重ね、「最後にたどり着いた」と思っていたのが、「民主党福岡3区」の総支部長(衆院選公認候補者)でした。

しかし、予想に反して「最後」にはなりませんでした。政治生命という意味では民主党福岡3区に骨をうずめることになるだろうと思っていましたが、その後「民進党福岡3区」に名称が変わり、さらに民進党分裂騒動の結果として「立憲民主党福岡3区」になりました。人生はわかりません。1年先のことも予測できませんでした。

昨年のいま頃(8月末頃)をふりかえると、民進党の代表選で枝野さんと前原さんの一騎打ちの真っ最中でした。当初から枝野陣営の劣勢が伝えられていましたが、私は枝野氏支持で代表選挙を戦い、敗北しました。前原新体制がスタートしてわずか1か月後に民進党が解体し、自分が公認候補から外されるなどと夢にも思っていませんでした。

昨年の総選挙では結局、立憲民主党の公認候補として戦うことになり、小選挙区では敗れましたが、支えていただいた皆さまのおかげで比例復活で当選できました。3年間の浪人生活をへて何とか衆議院議員4期目に入りました。

衆議院議員1期目は自民党の「国会対策委員」、2・3期目はみんなの党の「国会対策委員長」、そして4期目のいまは立憲民主党の「国会対策委員長代理」として、ずっと「国対畑」一筋でやってきたことになります。衆議院議員在職10年以上になりますが、一度も「国対」の肩書が外れたことがありません。

野党第一党の国対委員長代理は大変です。これまでの衆議院議員生活で就いた役職のなかで一番ハードなポジションです。みんなの党時代は、国会対策委員長(兼)筆頭副幹事長の時期もあれば、国会対策委員長(兼)幹事長代理の時期も、国会対策委員長(兼)選挙対策本部事務局長という時期もありました。いろんな役職に就きましたが、いまが一番大変です。しかし、大変ですが、権限も大きく、やりがいのある役職です。

国対委員長代理の役割として、党内のほとんどの部署や関係者と調整し、他の野党や与党とも調整し、国会内のさまざまなことに関与することができます。たとえ少しだとしても日本の政治を動かしている実感がもてます。いろんな経験ができるので、将来の勉強としても有益だと思います。遠くない将来に党内あるいは政府内で重要なポストにつくための予行演習としては最適です。

政治家としては、遠回り・寄り道が多かった人生です。所属政党も選挙区も変わるのはマイナスが多いです。落選して約3年の浪人生活も経験しました。当選4回ですが、いまの選挙区では新人議員だと思われることも多く、地元での知名度もまだまだです。それでも多様な経験を積み、いろんな人や考え方に出会えたおかげで、年齢の割には政治家としての経験値は高くなったと思います。

何度も「落下傘候補」と批判され、何度も新人候補の気分を味わってきた政治家はほとんどいないと思います。楽な選挙は一度も経験したことはなく、ギリギリで勝ったり、選挙直前に事情が変わって不戦勝になったり、落選したり、小選挙区で敗れて比例復活したりと、いつもきわどい勝負ばかりでした。勝ったことも負けたこともあります。しかし、これからは地盤を固めて確実に当選できるようになりたいし、政党も選挙区ももう替わりたくないので、立憲民主党福岡3区を本当に最後にしたいと思います。そして遠くない将来に立憲民主党を中心とする政権をつくりたいと思います。

紆余曲折をへていまに至りましたが、それでも一貫してきたつもりなのは、「貧困や差別、戦争のない社会をつくりたい」という思いです。そのためにどんな職業に就けばよいかと考え、政府機関職員(JICA)、NGOスタッフ、衆議院議員といった職業をわたり歩いてきました。

給料を基準に仕事を選んだことは一度もなく、一貫してより不安定な仕事へとシフトしてきました。最初に就職したJICAは、いちばん安定していて、それでいてやりがいのある仕事でした。その後はNGOに転職して給料が半減したこともあれば、衆議院議員に当選して思わぬ高額の歳費をいただいたこともあれば、落選して無収入状態が3年続いたこともありました。いろんなことがありましたが、お金のために仕事をしてきた感覚はまったくありません。

常に「社会の役に立つ仕事がしたい」という思いで職業人生を送ってきました。常に「貧困や差別、戦争や環境破壊のない世界をつくるのに役立つか否か」という基準に照らして仕事を選び、全力でがんばってきたつもりです。

いまは読書を除くと、無趣味で無粋な人間になってしまいましたが、以前はそれなりに趣味もありました。しかし、20歳代のある時点からなるべく趣味を捨てるように心がけてきました。子どものころはプロ野球や釣りが好きだったし、社会人になってからもJICAサッカー部のマネージャーとして活動し、長期休暇のときには海外にスキューバダイビングに行ってました。そういった趣味は20歳代のある時期を境に一切やめました。仕事以外のことに時間も労力もなるべくかけず、ムダのない暮らしをしようと心がけるようになりました。いろんなものを犠牲にしながら、仕事に集中できる体制を作るよう努力してきました。もともと無趣味な人間ではなく、意図的に無趣味な人間になり、仕事以外のことに情熱を注がないよう心がけています。

そんな私にとっては、ヒラリー・クリントン氏の大統領選挙敗北のときのスピーチはとても共感できて心に残っています。

I have spent my entire life for fighting for what I believe in. I have had successes and I have had setbacks. Sometimes, really painful ones. Many of you are at the beginning of your professional public and political careers. You will have successes and setbacks, too. This loss hurts, but please never stop believing that fighting for what’s right is worth it. It is worth it.

公職を志す若い人たちに向かってヒラリー氏は「私は自分が信じるもののために全生涯をかけて闘ってきた」といい切ります。彼女は「勝ったことも、負けたこともある」といい、負けたときのつらさも知っています。しかし、それでも「正しいことのために闘うことを決してやめないでほしい」と力強く訴えます。

ヒラリー・クリントン氏は優秀だけれども「冷たい政治家」という印象を持たれがちです。しかし、彼女はロースクールで法律を学びつつ、教育学もあわせて勉強し、子どもの権利を守るための法整備に力を入れ、実績をあげました。単にお金儲けや立身出世のために弁護士をめざしたわけではなく、20歳代の早い時期から社会派弁護士として子どもの権利を守るために闘ってきた闘志です。

弱い立場の子どもたちを守るために弁護士になったヒラリー・クリントン、そういう人物こそアメリカ大統領になってほしかったと思います。カジノや不動産業で金儲けばかり考えてきた品のない人物が大統領に選ばれるとは思っていませんでした。

さて、私も政治家を引退するときにヒラリー・クリントン氏と同じことが言えるよう、“I have spent my entire life for fighting for what I believe in.”という姿勢をみならいたいと思います。いま45歳ですから、あと25年くらいは全力で正しいと信じる目的のために闘い続けたいと思います。これからもご支援のほどをよろしくお願いいたします。