トマ・ピケティの経済制裁論

経済学者のトマ・ピケティ氏といえば「21世紀の資本」で一世を風靡しましたが、ロシアへの経済制裁についておもしろい提案をしています。ポイントは「ロシア国民全体を経済制裁の対象にするのではなく、富裕層にターゲットを絞って経済制裁を行う」という点です。

そろそろ新しいタイプの制裁を考案すべきときが来ている。問題になっている国家体制の恩恵を受けて裕福になったオリガルヒ(国有企業を民営化する過程で生まれたロシアの新興財閥)に対して制裁を集中的に課すべきなのだ。

まったく正しいです。経済制裁が体制転覆につながった例は意外と少ないです。北朝鮮の体制はきびしい経済制裁でもいまだに続いています。

イギリスの外交官のロバート・クーパー氏は次のように述べます。

経済制裁は、対象国に行動を改めさせる誘因にもなるし、制裁解除は交渉における有効なカードに最終的にはなるだろう。しかし、経済制裁の痛手をより厳しく受けるのは、常に保身に怠りない指導者より、民衆である。あらゆる努力を講じたものの、イラクではそうしたことが起きてしまった。

逆説的ではあるが、経済制裁がもっとも効果を発揮するのは、経済制裁を課す必要がまったくない国、つまり、民主主義国家を相手にしたときなのだ。なぜなら、民主主義国の民衆は、経済制裁で損害を受けたら、次の選挙で政府に報復するだろうから。

ところが、経済制裁が逆効果となり、その国の政府をかえって強くすることもあるのだ。元々は人気のなかった政府であっても、外部から圧力がかかったことをきっかけに、周囲に一致団結する雰囲気が生まれることがよくある。セルビアへの経済制裁の場合、この国の政府に経済破綻への責任を回避する口実を与えてしまった。いや、セルビア政府は、利益すら得ていたかもしれない。経済制裁の結果、導入された配給制度の操作を通じて、セルビア政府に権力が集中することになったからだ。ミロシェビッチ率いる政府のごとき半ば犯罪組織のような政府は、暗黒社会と深いつながりを持っているため、密輸や非合法活動が活発な環境の中で栄えるのである。

クーパー氏が指摘する「経済制裁が、制裁された国の体制を強化する」という逆説が実際にあります。北朝鮮もそうでしょう。ロシアもそうなりかねません。プーチン体制は今のところ動揺している様子はありません。ロシアの庶民は経済制裁で苦しみ、アメリカへの恨みを深めているのは確実です。

また経済制裁で密輸等が横行すると、禁酒法時代のアメリカのようにマフィアが力を得て、犯罪者が増えて庶民は困る事態を招きかねません。プーチンの周辺のマフィアに限りなく近い政商や軍・治安機関・情報機関関係者は、経済制裁による地下経済の拡大で利益を得る可能性さえあります。

ロシアの国民の一定割合は、本心ではウクライナ侵攻を望んでいないと思います。特に戦場に送られる兵士やその家族は、祖国防衛の大義のある戦争ならまだしも、大義なき侵略戦争で犬死することは望まないでしょう。

トマ・ピケティ氏の主張するように、ロシアの庶民を苦しめる経済制裁ではなく、プーチン体制を支えるエリートや富裕層を狙い撃ちした経済制裁の方が合理的です。そして富裕層の個人を狙い撃ちにする経済制裁を可能にするテクノロジーや仕組みはすでに用意されています。あとは政治的意思だけです。

富裕層を狙い撃ちにする経済制裁には、金融資産や不動産を登録する国際的な台帳が必要になります。それは西側諸国が協力すれば技術的に可能です。ブロックチェーン等の新しい技術は、こうした正しい目的のためにこそ活用すべきです。

ただし、西側の超富裕層はこういった取り組みに反対します。ロシアのオリガルヒ(新興財閥)や中国共産党幹部と同じく、西側の超富裕層もタックスヘイブンにあやしげな銀行口座やペーパーカンパニーを持ち、課税逃れを行っています。そういった西側の超富裕層は政治力があります。西側の超富裕層の抵抗を排除してでも、プーチン政権に打撃を与えるために国際的な金融資産台帳の整備を行うべきです。結果的に富裕層の租税回避が減り、各国の税収は増えるでしょう。

トマ・ピケティ氏によると、不動産と金融資産をあわせて1千万ユーロ(約14億円)以上のロシアの富裕層は約2万人だそうです。ロシアの成人のわずか0.02%です。ターゲットを5百万ユーロ(約7億円)に広げてもロシアの成人の0.1%です。この人たちは仮に経済制裁を受けても、それでもロシアの平均的な国民よりずっと裕福で、食べる物に困ることはありません。プーチン政権を支えてきた富裕層が経済制裁により、反プーチン感情を強めれば経済制裁は効果を発揮します。

こういった富裕層狙い撃ちの経済制裁の実施体制を整備すれば、日本を含む西側諸国の超富裕層にもマイナスのインパクトがあるでしょう。超富裕層や多国籍企業の課税逃れへの国際的批判は高まっています。この際、西側の富裕層にも適切な納税を強制し、グローバルに公平な税制をめざすことも同時に目標としてもよいでしょう。トマ・ピケティ氏の提案はとてもよいと思います。日本の財務省(国税庁)もぜひ!

*参考文献:
クーリエ・ジャポン編 2022年「ウクライナの未来 プーチンの運命」講談社
ロバート・クーパー 2008年「国家の崩壊」日本経済新聞出版社