文部省 + 科学技術庁 = 大学政策の劣化

橋本行革により「文部省」と「科学技術庁」が統合されて「文部科学省」ができたのが2001年です。もう20年になります。そしてこの20年間の高等教育(大学教育)政策は、おおむね誤っていたと私は思います。

文部科学省が過去20年で進めてきた高等教育政策で思い浮かぶのは次の政策です。

  • 国立大学の運営費交付金の大幅削減
  • 前述の運営交付金削減と抱き合わせの競争的資金(科研費等)の増加
  • 人文・社会系学部や教員養成学部の削減
  • 大学入試改革:①民間英語試験導入、②大学入学共通テストの記述式問題導入と民間委託
  • 世界大学ランキング100位以内に日本の大学10校をランクインという目標設定

以上の5つの政策は、私にとってはどれも愚策です。どうしてこういう政策が出てきたのか謎でした。「中教審には優秀な学者がいるはずなのに、文部科学省には優秀な官僚がいるはずなのに、なぜだろう?」と不思議でした。

その謎への答えは、教育行政学が専門の青木栄一東北大准教授の新著「文部科学省」(中公新書、2021年)を読めばよくわかります。目から鱗が落ちる指摘もたくさんあります。大学関係者にはお薦めの1冊です。

青木氏の解説によると、旧文部省と旧科学技術庁では、国立大学への認識がまったく異なります。国立大学のことを、旧文部省は「学術の場」と捉え、旧科学技術庁は「科学技術政策の場」と捉えます。ここに大きな違いがあります。

旧文部省では「学術国際局」が大学教育を担当していました。余談ですが、私はJICA職員だった頃に教育案件を担当していたので、旧文科省とおつき合いがありました。当時の文部省のODA関係窓口は「学術国際局」の「国際企画課教育文化交流室」でした。教育文化交流室の担当官とは電話や文書のやり取りをよくしたものでした。

青木氏は「学術」と「科学技術」の違いについて次のように言います。

『学術』は、人文・社会科学と自然科学を包括する概念で、かつ不変の真理を追究する基礎研究の性格が強い。これに対して「科学技術」はどちらかといえば自然科学中心で、社会の発展に寄与しようとする応用研究の性格が強い。

文部科学省になってから「学術の場」としての国立大学の色合いがどんどん薄くなり、国立大学を「科学技術の場」として扱う傾向が強まりました。大学政策に関しては、旧科学技術庁系の官僚の力が強まり、旧文部省系の官僚の影響力が弱まったと指摘されています。

政府は2001年に内閣府に「総合科学技術会議」を設置し、さらに2014年に「総合科学技術・イノベーション会議」へと衣替えしました。学術政策は科学技術政策に包摂され、さらに科学技術政策はイノベーション政策に包摂され、産業政策の一部として扱われる傾向が強まります。

かつて「社会の役に立つ研究」と言われていたものが、ついに「利潤を生み出す研究」に行きついてしまいます。政府の成長戦略のなかに大学政策が完全に包摂されます。その行き着く先は、基礎研究の軽視、人文・社会科学の軽視、「真理の追究」より「利潤の追求」への変質です。もはや人文・社会科学は「無用の長物」扱いです。

そう考えてくると、日本学術会議の問題も根が深いことがわかります。「学術」を軽視する安倍・菅政権や自民党文教族が、日本学術会議を弱体化させようとするのは必然です。「真理」を追究されては困る政権が、日本学術会議を敵視するのは自然なことです。

この流れに沿って考えれば、国立大学の人文・社会科学系学部や教員養成学部が削減されるのも必然です。旧文部省系の官僚が力を失い、旧科学技術庁系官僚が主流を占めて経済産業省出身の官邸官僚と結託した結果、「学術」は衰退し、「産業政策の一部としての大学政策」という色合いが強くなります。

青木氏の整理によると、旧科学技術庁の科学技術政策は、トップダウンによる「選択と集中」を基調とするそうです。一方、旧文部省系の「学術」畑は、研究者の自発性を尊重し、ボトムアップを重視する傾向があるそうです。

旧科学技術庁的な発想に立つと、「学問の自由」は意味がないどころか、「選択と集中」の邪魔です。また「大学の自治」の内容が変質し、競争をあおり、大学経営に企業経営の手法と用語を持ち込み、学長のリーダーシップを強化する方向へと“大学改革”は進みました。一部の国立大学で独裁的な学長を生んだのは、その悪影響の一例です。

この20年ほどの大学改革の多くは、競争原理を強調して「選択と集中」を加速してきました。国立大学の運営交付金のように大学の自由度の高い資金を削減する一方で、競争的資金を増やしてきました。

助成金獲得競争で有利なのは、すぐに結果の出る応用研究であり、理系の基礎研究や人文・社会科学系の研究は不利です。アイヌ語の研究やインドネシア地域研究が競争的資金を獲得できる可能性は高くないかもしれません。文部科学省や経済産業省、内閣府の官僚の目から見て「役に立つ」研究以外はやりにくくなったと思います。

これまでの大学改革が成果を上げているのであれば文句は言えません。しかし、近年の日本の研究レベルは低迷しています。大学では非正規ポストや任期付きのポストの割合が高まり、せっかく博士号をとっても安定した身分で研究に励めない研究者が増えています。研究レベルの低迷は当然です。研究だけでなく、日本の大学教育のレベルが上がっているようにも見えません。

日本人のノーベル賞受賞者は21世紀に入ってから増えていますが、評価された研究は20~30年前の研究です。その頃の大学政策の良かった点を再評価し、今後の大学改革に活かしていく方がよいかもしれません。おそらく昔の国立大学は、今よりはるかに競争的資金は少なく、運営交付金への依存度が高かったと思います。

ノーベル賞を受賞した研究者の皆さんは、若かりし頃に「真理の追究」や知的好奇心に駆られて研究に打ち込んでいたのだと思います。政府の「選択と集中」の結果としてノーベル賞級の研究成果を上げたのではないと思います。

旧文部省か旧科学技術庁の官僚が「〇〇の研究に予算を付けたら、ノーベル賞級の研究成果が上がるだろう」という判断をしたはずがありません。そんな判断力があれば、自分で研究するか、ベンチャーキャピタルの投資家になるべきです。

文部科学省や経済産業省の官僚が「どんな研究テーマが大発見につながるか」を判断するのはむずかしいと思います。それより研究者の自発性を最大限尊重し、それぞれの研究者に自らの判断で真理の追究をしてもらい、結果的に社会を変えるイノベーションが起きるのをサポートすべきだと思います。

政権交代が実現したら、文部科学省の大学政策は抜本的に改め、かつての文部省の「学術」重視の姿勢に戻すべきだと思います。

国立大学の運営交付金を元に戻し、研究者を正規化すべきです。「学問の自由」や「大学の自治」を尊重し、経済界や経済産業省の介入から国立大学を守るべきです。

また、数十年前に比べて国立大学の授業料が高額になったので、授業力を半額程度に削減して、教育機会の平等をめざすべきです。給付型の奨学金もさらに拡充すべきです。

大学教育や大学改革に限定しても、やるべきことがたくさんあります。政治を変えないと、大学政策は変わりません。

*参考文献:青木栄一 2021年「文部科学省」中公新書