月刊誌「潮」の2020年12月号に「分断と憎悪の社会をどう立て直すか」という北海道大学の吉田徹教授(比較政治、欧州政治)のインタビュー記事が掲載されていて興味深い内容でした。この「潮」は某政党の機関紙的な雑誌ですが、偏見を持たずに手に取ってみるとよい記事もときどき出ています。たまに密かに読んでいます(と公言してしまいましたが)。
ちなみに私は落選中に1学期だけ北海道大学公共政策大学院で非常勤講師を勤めさせていただきましたが、吉田教授にはそのときたいへんお世話になりました。畏友の吉田氏は、既成の枠組みにとらわれない広い視野で発信し、いつも知的刺激と影響を受けています。
さて、本題に入ります。最初の節の見出しはいきなり「なぜリベラルは嫌われるのか」です。私の自己認識としては、もともと「リベラル保守」くらいの立ち位置のつもりでしたが、世の中が右へ右へとシフトするなかで、いまは「リベラル」と見られていることでしょう。
昨年、慶応大学の井手英策教授ほかと共著で出した新書本のタイトルは「リベラルは死なない」(朝日新書)でした。そんな私にとって「なぜリベラルは嫌われるのか」は重大なテーマです。他人事ではありません。
吉田氏によれば、現在の日本のおける「リベラル」とは、「個人の自己決定権を尊重する」ということが核心にあります。リベラルは、女性の権利、障がい者の権利、子どもの権利などを重視し、個人の自由と多様性を尊重します。
しかし、いまリベラルな価値への反発が強まっており、その背景にはリベラルな言動をとることのできる人々(自己決定できる人々)が「特権階級」となってしまっている現状があると吉田氏は指摘します。
個人の自己決定のためには前提となる条件があります。一定以上の経済力、教養や学歴、安定した雇用や信頼できる共同体や人間関係がそろってはじめて、人は自己決定を行う力を持てます。人権、貧困、マイノリティの権利といった課題に当事者でもないのに関心を持つためには、そういった事態を憂えるこのとできる想像力と知識が必要です。ある程度の余裕がないと、なかなか他者の痛みに共感できません。
日本を含む多くの先進国では、個人を支えセーフティーネットとなる「ソーシャル・キャピタル(社会関係資本)」が劣化し、余裕がなくなっています。家族、企業、労働組合といった個人を支える共同体の資源も減少しています。自己決定の土台となる資源を今でも持っている人たちは、特権的なエリートと見なされる傾向が出てきています。
エリートへの反発が、世界各国でポピュリズム政治や強権的指導者の台頭を招いています。資源と余裕を失った社会では、「他者への寛容」を説くリベラルなエリートよりも、敵を作って社会を分断する「強いリーダー」に期待する人が増えます。
「ユダヤ人が悪い」「移民が悪い」「イスラム教徒が悪い」「在日外国人が悪い」と粗雑な答えに飛びつくほど、余裕を失っている人たちが増えているということだと思います。
ソーシャル・キャピタルが崩壊し、格差が固定化した社会では、唯一「同じ国民である」ことが平等であることの条件になっている人が多いわけです。その結果、排外的ナショナリズムが広がり、多文化共生をめざすリベラルは嫌われます。
あるいは「強いリーダー」を待望する人たちは、強い者にあこがれ、弱い者を憎悪する傾向があるのかもしれません。そういう人たちにとっては、弱者に共感して少数派の権利を尊重するリベラルは憎悪の対象なのかもしれません。
行動経済学者のヤン・アルガン氏のイギリス、フランス、米国等の有権者を対象にした調査研究によると「自分の人生にどのくらい満足しているか」と「他人をどのくらい信頼しているか」の2つの質問への答えを軸にすると、4つに分類できて、政治的な傾向がわかるそうです。概要は以下の通りです。
1.人生への満足度が高い人は、従来の政治勢力を支持する傾向がある。従来の政治勢力とは「リベラル派」および「保守派」である。
2.人生への満足度が低い人は、ポピュリズムを支持する傾向がある。
3.この2つの質問への答えに基づくと次の4つの政治的傾向がわかる。
(1)「人生の満足度が高い」×「他人への信頼度が高い」=リベラル派
(2)「人生の満足度が高い」×「他人への信頼度が低い」=保守派
(3)「人生の満足度が低い」×「他人への信頼度が高い」=左派ポピュリスト
(4)「人生の満足度が低い」×「他人への信頼度が低い」=右派ポピュリスト
日本のどの政党がどのカテゴリーに入るかは、読者のご想像にお任せします。ヤン・アルガン氏の分類が単純すぎるという批判は、容易に想像できます。しかし、実感としてある程度は理解できます。
左右を問わずポピュリストが増える背景に格差と貧困があるのは間違いありません。右のポピュリズムは排外的ナショナリズムやファシズムに結びつきやすく、トルコのエルドアン政権、ハンガリーのオルバン政権、米国のトランプ政権がその例として挙げられるでしょう。そして左のポピュリズムはベネズエラのチャベス政権のような社会主義的全体主義に陥りがちです。右も左もポピュリズム政治は危険です。
ポピュリズム政治を終わらせるには、「人生への満足度が低い」状態の人を減らさなくてはいけません。そして「人生への満足度が高く」て、お互いに助け合い信じ合える「他人への信頼度が高い」社会を築いていくことが政治の使命です。
そこでリベラル再生のために何が必要なのかを吉田氏は指摘します。
これからの時代は、復古的な共同体主義ではなく、自己決定権を可能にする環境整備を進めていかなければならない。人間が生きていくために必要とされるものは、税金を通じて公的に保障する仕組みが求められる。具体的にいえば幼児教育を含む教育や医療、介護、住居などのサービスを無償で提供することだ。
まったく同感です。最近よく枝野さんが使う言葉の「ベーシック・サービス」とは、医療、介護、障がい者福祉、教育、保育、住居などの人が生きていく上で必須のサービスです。これらのベーシック・サービスには、所得や資産に関係なく、無償または廉価で万人がアクセスできなければいけません。それが立憲民主党がめざす「支え合う社会」です。
自己決定権を可能にする諸制度は、経済学や教育学では人的資本投資という。産業やイノベーションに対して投資を行うのではなく、人間に投資をするものだ。
安倍政権の経済成長戦略では人への投資が軽視されてきたと思います。GDPに占める公教育支出の割合は、OECD加盟国では日本が最低です。教育や職業訓練の公的支出を増やし、「人への投資」を充実させる必要があります。教育の充実は、労働者の質の向上という経済的メリットもありますが、良い市民を育てるという観点からも重要です。
自民党や経済人、メディアはしばしば「野党には経済政策がない」と批判しますが、アベノミクスの経済政策がどれだけうまく行ったのでしょうか。産業政策やイノベーション促進政策がどれだけ成功したのでしょうか。低い潜在成長率を見る限り、アベノミクスの経済成長戦略がうまく行ったとは思えません。野党は堂々と「人への投資、自然エネルギーと省エネへの投資が、経済成長戦略だ」と言い切るべきだと思います。
また吉田氏は次のように言います。
これまでの経済成長と人口増を前提とした環境が当てにできないのであれば、働き方と社会保障制度をデカップリング(切り離し)したうえで、人間に投資を行っていく方向へと国の制度を変えていかなければ、孤立した個人はますます増え、戦後日本を支えたリベラルな価値は衰退していくことになるだろう。
ソーシャル・キャピタルを欠く孤立した個人は、強い国家や強いリーダーを求め、排外的なナショナリズムに影響されやすく、リベラルを嫌います。リベラルな価値を守るためには、個人を孤立化させないこと、格差で社会の分断を広げないことが大切だと思います。
人に投資し、強靭性のある社会をつくるためには、国家の税収能力と再分配能力を高めなければならない。しかし日本は、他国と比べて際立って痛税感の強い国だ。根底には税金を払っても、国や政治家は有効に使わないだろうという政治不信がある。
税と社会保障の再分配機能を強化することが必要ですが、そのためには政府への信頼を取り戻さなくてはなりません。政治不信の連鎖が生んだ「小さな政府」から脱却し、支え合う社会の土台となる「信頼できて機能する政府」をつくっていくことが課題です。
リベラル・デモクラシーを守るには、社会保障(ベーシック・サービス)を充実させ、税と社会保障の再分配機能を強化して格差を是正することが大切です。そのことが「人生への満足度」を高め、「他人への信頼度」を回復させることにつながり、リベラル派への信頼を取り戻すことにつながります。私の共著本のタイトルではないですが、「リベラルは死なない」し、リベラルを死なせてはいけません。
*参考:吉田徹、「潮」 2020年12月号「分断と憎悪の社会をどう立て直すのか。」