世の中はだいぶお盆休みモードになってきました(私は出勤中ですが)。最近、母校の筑紫丘高校同窓会の実行委員会ZOOM会議に参加し、高校時代のことを思い出していました。
高校時代お世話になり亡くなられた先生方のなかで、心に残っている先生が日本史の近藤典二先生です。私が高校生のころの近藤先生は、どこかの高校で校長先生を経て定年退職されたあと、おそらく臨時雇用みたいな形で日本史を教えていらっしゃいました。
近藤先生の日本史は、大学受験をまったく意識しない授業でした。受験対策など考えず、楽しそうに歴史を語る先生でした。「この先生は本当に歴史が好きなんだろうな」と思いながら授業を聞いていました。いろんなエピソードを交えて講義するので、脱線が多かったように思います。
日本史の授業でしたが、同時代の世界の動向なども具体例を交えて話してくださった記憶があります。受験には役に立たないけれども、楽しい授業だったので、近藤先生の授業は印象に残っています。そして受験には役に立たないけれど、歴史の考え方を学び、教養としての歴史を学ぶには最適の授業だったかもしれません。
同窓会の会報によると近藤先生は、母校が旧制中学だったころの卒業生で、九州大学文学部で歴史を学び、母校の日本史の教師になられました。高校の郷土研究部の顧問として、生徒を指導されたそうです。
近藤先生は、地方史の研究者としても知られ、福岡県地方史研究会の会長を務められました。長崎街道の山家宿の研究、文化財の保存に尽力されました。ちなみに山家宿というのは、私の中学校区内にある集落で、子どもの頃の私の活動範囲内でした。近藤先生は「筑紫野の地方史」「筑前の街道」といった本を出版され、福岡県の地域文化功労者表彰を受賞されました。
高校時代のある日、自宅に帰ると、なぜか近藤先生が祖父と座敷で談笑していたことがありました。「なんで近藤先生がうちの祖父と自宅で話し込んでいるんだろう」と疑問に思っておりました。疑問に思ったものの、すぐに忘れていました。
しかし、四半世紀たって同窓会会報で近藤先生の訃報を読み、理由がわかりました。うちの実家は、長崎街道の原田宿の宿屋でした。江戸時代のちょっと前から昭和のはじめまで旅館業だったので、近藤先生は長崎街道の現地調査でうちに来られていたのだとわかりました。祖父も旧制筑紫中学で近藤先生の何年か先輩だったので、個人的にも知り合いだったのかもしれません。
私の伯父も同じ高校出身なのですが、伯父は旧制中学から新制高校に移行する時期で、終戦直後の高校生でした。伯父も近藤先生から日本史を習ったと言っていました。「近藤先生は、軍隊から帰ってきたばかりで、着る物がないから将校の軍服を着て授業をしていて怖かった(=えずかった)」と伯父が言っていた記憶があります。
近藤先生は歴史専攻(文系)なので、早い時期に学徒動員されたのかもしれません(*理工系学生は戦争初期は学徒動員を免除されていました)。学徒動員で将校になるパターンが多かったので、将校の格好のまま高校で教えていたというのは辻褄が合います。
終戦直後に伯父が教わった時の近藤先生の印象と、その約40年後に私が教わった時の近藤先生の印象とはぜんぜん違います。私が習った時の近藤先生は、穏やかな紳士でやや小さな声で話されていた印象があります。
近藤先生のおかげもあって日本史が好きになりました。今でも歴史は好きです。近藤先生には感謝しています。伯父も近藤先生のことを覚えていて話していたくらいなので、学校の先生というのは多くの教え子の記憶に残る有意義な仕事だと思います。
近藤先生のように自分が教えている教科を心から愛し、楽しそうに生徒たちに教えられる先生が理想だと思います。近藤先生が高校教師をやりながら、本業のかたわらで郷土史研究家として業績をあげ、本の出版までできたのは、いまほど教員の多忙化が進んでいなかったせいかもしれません。
比較教育学的にいうと、日本の教員文化のユニークな点は、教員同士の教科研究会などの自発的な学習会や研究会が活発に開催されることです。そういった教員相互の学び合いや研究会は、国際的に高い評価を受けてきました。
しかし、最近の教育現場は多忙化で余裕がなくなっています。統計的にも20年、30年前の先生より今の先生の方が残業時間が長いことは明らかになっています。
また、非正規教員が増えていますが、不安定な雇用の教員にとっては研究会や郷土史研究どころではないでしょう。近藤先生みたいに楽しそうに教えられる環境ではなくなっているかもしれません。
知識経済化が進み、ソフト化(非物質化)がすすむ経済においては、教育がより重要になります。教育の質を高めるには、教員の質が重要です。教員の多忙化を防ぎ、安定した身分で、安心して教えられる学校にしなくてはいけません。近藤先生のように楽しそうに教科を語る教員を増やさなくてはいけないと思います。