認知神経科学、発達心理学の専門家のメアリアン・ウルフ教授(UCLA)によると、「デジタルで読む」ときと、「紙の本で読む」ときでは、脳のちがう部分が働いているそうです。メアリアン・ウルフ氏は失読症(ディスレクシア)の専門家であり、失読症の子を育てた母親でもあります。彼女は次のように指摘します。
印刷で読むか、画面で読むかによる、認知および感情の差異を調べたのです。…学生被験者に、短編小説を読んで、それについての質問に答えるように指示しました。物語の筋書きは、学生みんなに訴えかけそうなものです(つまり、欲望うずまくフランスのラブストーリー)。「ジェニー・わが愛」を、学生の半分はキンドルで読み、あとの半分はペーパーバックの本で読みました。
その結果、本媒体で読んだ学生の方が画面で読んだ仲間より、筋を時系列順に正しく再現できることがわかりました。言い換えれば、フィクションで見落とされがちな細部の順序づけが、デジタル画面を読む学生にはわからなくなるようだったのです。(中略)研究者グループの仮説によると、彼女らの発見は、画面で読むことが斜め読み、読み飛ばし、拾い読みを促す傾向と、何がどこにあるか教えてくれる本の具体的な空間次元が画面には本質的にないこと、両方と関係しているのです。
私は「電子書籍でも紙の本でも同じだろう」と思っていたので、この指摘には驚きました。私は、電子書籍が苦手なこともあり、いつも紙の本を読んでいます。ごくたまに電子書籍を読むのは、著作権が切れた古い文学作品やネットでダウンロードした報告書を読むときぐらいです。
同時並行で2~3冊の本を読むくせがあるため、紙の本は重たくてしょうがありません。それでも紙の本を読んでいます。もっとも深い意味はなく、単に好き嫌いの観点で、紙の本を選んでいました。これからは堂々と紙の本を読みます。
ちなみに、メアリアン・ウルフ氏はデジタル機器を目の敵にしているわけではなく、失読症の子どもにはデジタル機器が役立つこと等、「デジタル脳」の重要性も認めています。他方でデジタル脳だけに偏ることの危険性を指摘し、デジタル脳は「深い読み」を阻害する点に注意を喚起します。
過剰な情報をたえず突きつけられる環境にあって、多くの人々は、楽に消化でき、あまり難しくなくて、あまり知性を必要としない情報の詰まった、なじみの貯蔵庫に引きこもりたい衝動に駆られます。毎日押し寄せる一目で読めるサイズの情報で知識が得られているという錯覚が、複雑な現実の批判的分析をしのぐおそれがあります。
トランプ大統領がツイッターを多用して選挙キャンペーンを乗り切りましたが、まさに「楽に消化でき、あまり難しくなくて、あまり知性を必要としない情報」を大量に発信することで、政治的勝利につなげました。ポピュリズム政治とは、反知性主義の政治にほかなりません。その害悪は述べるまでもありません。
また、米国のデジタル世代の若者に思わぬ影響が出ているようです。
若者たちに予期せぬ共感低下が始まっています。(中略)過去20年間で若者たちの共感が40パーセントも低下し、しかもこの10年でもっとも急激に低下していることを明らかにしています。共感喪失のおもな原因は、若者たちがオンライン世界を渡っていくには、どうしてもリアルタイムでじかに話す関係から注意がそれてしまうことにあります。
SNSやインターネットの世界では、対面ではおそらく使わない厳しい攻撃的コメントを書き込む人がいます。面と向かったら使わないような失礼な言葉遣いもネットの匿名の世界では許される気になってしまいます。ネットの世界にどっぷりつかり過ぎることの弊害なのかもしれません。
新しい情報を推論と批判的分析をもって理解し解釈するためには、自分自身の知識ベースを使うことができなくてはなりません。そうしない場合のあらすじはすでに明確です。私たちはだんだんと影響を受けやすい人間になり、怪しげな情報や誤った情報にますます安易に誘導され、そんな情報を知識と勘違いするか、もっと悪いことに、どちらであっても気にしないようになってしまいます。
トランプ大統領のあきらかな嘘を嘘だと見抜けない人たちは、自分のなかに「知識のベース」がないのでしょう。基本的な知識がなく、批判的分析能力が発達していない段階で、ファクトチェックがなされていない情報を鵜のみにするのは危険です。
その点で大手新聞や学会誌等は、編集者のファクトチェックと編集が入っているので、信頼性が高いです。ネットの世界の有象無象のあやしげな情報を、紙の出版物と同じように信頼するのは危険です。その危険性を認識していない人が多いことは、健全な民主主義への脅威です。
複雑な類推と推論のスキルを磨くように継続的に努力する場合にのみ、その根底にある神経ネットワークが、情報の受動的消費者ではなく、知識の思慮深い批判的分析者となる能力を維持してくれるのです。
ツイッターのように140字で表現しなくてはいけないコミュニケーション手段だけに依存していては、複雑な類推や推論のスキルは磨けません。事実を裏づけるデータや論理的な説明は140字では足りません。すでに類推や推論のスキルを身につけた人がツイッターを使ったり読んだりするのは支障ないでしょう。しかし、そうでない場合は危険です。
明らかに間違った情報がネットの世界では広く流通しています。おかしな陰謀論を真に受ける人が以前より増えている気がします。新聞社や出版社という「情報のゲートキーパー」のいないネットの世界は、陰謀論やヘイト論のオンパレードです(出版の世界でも増えていますが、、、)。
昔から陰謀論の多くはガセネタです。ガセネタを見抜くには「知識ベース」が必要ですが、それは努力なしには獲得できません。SNSやツイッターの断片的な情報をいくら積み重ねても「知識ベース」は構築できません。やはり信頼できる学者やジャーナリスト、専門家が書いた本や学術書、新聞・オピニオン誌等を地道に読んでいくしか、そういった「知識ベース」は構築できないと思います。
言語力と思考力が衰えるとき、複雑さが薄れて何もかもがどんどん同じになるとき、社会には―宗教や政治組織の過激派からにせよ、もっと目立たない広告主からにせよ―大きなリスクが生じます。冷酷に強制されるにしろ、知らぬまに強化されるにせよ、集団、社会、あるいは言語の均質化は、異なるものすべて、つまり「他者」の排除につながるおそれがあります。
複雑さを避けてテレビCMのように短いキャッチフレーズだけで政治が動く、「ワンフレーズ政治」は排他的ナショナリズムと親和的です。ヘイトスピーチの主張の一本調子の単調さを見てもあきらかです。
どんなメディアにも長所と短所がある。どんなメディアにも、伸ばせるスキルもあれば、そのために犠牲になるスキルもある。インターネットはみごとな視覚的知能は伸ばせるかもしれないが、そのために重大な処理能力、すなわち意識的な知識の獲得、帰納的分析、批判的思考、想像力、そして熟考が、犠牲になるように思われる。
確固とした知識のベースや批判的思考力が身についた上で、デジタル機器を使いこなすことが大切です。さもないとデジタル機器によって脳の大切な機能が損なわれてしまいます。
メアリアン・ウルフ氏は小さな子どもにデジタル機器を与えるときも注意すべきといいます。
手近な画面で注意を引きつける魅力的なものを突きつけられると、幼い子どもたちはすぐに、たえまない感覚刺激にどっぷり浸かり、そのあと慣れっこになり、そしてしだいに半ば中毒になります。
何時間もiPadでYouTubeを見ている子どもがたくさんいますが、あれは中毒です。活字中毒にはさほど害はありませんが、デジタル機器中毒にはさまざまな害があります。
子どもの研究でもやはり電子書籍より紙の本の方が理解力を高めることがわかっているようです。
イスラエルの小学校5年生を対象にした大規模な研究では、同じ物語を印刷か画面かのどちらで読むかによって、読解にかなりの差があることがわかった。ほとんどの子どもはデジタルで読む方が好きだと言ったにもかかわらず、読んだものの理解は印刷で読んだ方がうまくできた。
デジタル機器に教育アプリをインストールすれば教育に役立つんじゃないか、と誰もが考えると思います。私もそうでした。しかし、その効果は慎重に見ていく必要があるようです。
新米の親にとって「アプリの未開拓の領域」との初めての出会いは、けっして単純ではありません。iPhone向けだけでも100万を優に超えるアプリがあり、そのうち数千が「発育に役立つ」とか「教育用」などと呼ばれている、とリサ・ガーンジーとマイケル・レヴィンの包括的な調査が示しています。自称「教育アプリ」のほとんどは、ちっとも教育的ではなく、二歳から五歳の読み書き予備能力、あるいは読み書きの前段階を促進するという目的をうたっているもののなかで、企画のどこかにリテラシーの専門家が関わっている製品はほんのわずかです。
日本の現状はどうでしょうか? 米国よりマシだと思いますが、それでも心配です。いわゆる「教育アプリ」は慎重に選び、誰がどういう意図と根拠で企画制作したのかを調べた上で、採用した方がよいでしょう。
子どもたちが読み方を学びながら考える手助けをするためのもうひとつの戦略に、あなたは驚くかもしれません。手で書くことを覚えると、子どもたちは自分自身の考えをウサギよりカタツムリに近いペースで探るようになります。綴りがまだおぼつかない場合はなおさらです。小学校低学年で自分の考えを手で書くことを学ぶと、子どもたちは書くことも考えることも上手くなると実証する、手書きに関する研究が増えつつあります。認知神経科学の観点からすると、皮質における言語と運動のネットワークの有益な接続は、何世紀も前から中国語を書いたり教えたりする人が知っていたことです。
米国人はアルファベットを使い、コンピュータの発明以前からタイプライターを使う文化で育つので、「手で書くことを覚える」ことに「驚くかもしれません」。しかし、音声だけでなく意味も表す文字である漢字を使う日本語話者は、中国語話者と同様に、手で書くことを重視する教育スタイルです。小学生が使う漢字ドリルや読解問題を見れば、日本の国語教育が手で書くことを重視しているのは一目瞭然です。認知神経科学の観点からも、手で書くことが考える力を養うのに役立っていることがわかります。
メアリアン・ウルフ氏は、子どもたちにはデジタルの世界に入ったらすぐに「対抗スキル」を教えることが重要だと説きます。スピードではなく意味を求めて読むことの重要性、単語で見当をつけるジグザグの斜め読みを避けること、読みながら自分の理解度を習慣的にチェックすること等が大切だそうです。
そしてインターネットの良い面、悪い面、魅力的な面、有害な面を意識し、「デジタルの知恵」を教え、正しい判断をする方法、注意力を自己管理してチェックする方法を学ぶ必要があると主張します。
米国で出された「全員にとってのチャンス? テクノロジーと低所得家庭の学習」という報告書によると、二種類のデジタル格差があるそうです。ひとつはデジタルツールの利用機会の格差。もうひとつは親の関与の格差です。
米国の貧しい家庭の子どもにとっては、スマホが唯一のデジタル接続の道具であり、wifi環境でなければデータの利用にも制限があります。また、単にデジタル機器を子どもに渡すだけでは、子どもは遊びに使うだけで終わります。親の適切な関与がないと、デジタル機器の教育効果は高くありません。お母さんが2つも3つもパートを掛け持ちしているような母子家庭の子どもがデジタル機器を使いこなして学習できる可能性は低いといえます。
フィラデルフィアの図書館で行われた研究では、恵まれない家庭の子どもに図書館の本やデジタルの利用機会を提供したところ、親の関与がなければ、デジタル機器を導入したグループの方がそうでないグループよりも読み書きテストの成績が悪かったそうです。デジタル機器を遊びに使っただけの子どもは特に成績が悪かったそうです。
デジタル学習のプラス効果は、利用機会や接触の問題にまとめることはできません。多くの善意のテクノロジー専門家がいまだに持っている思い込みは、デジタル機器と接触さえすれば、読み書きを含めた学習においてシナプスが飛躍的に増えることになる、というものです。
デジタル学習(ICT教育)への盲目的信頼は危険です。新しい手法が常に優れているとは限りません。伝統的な手法の良さを知り、良いところはそのまま残し、改善すべき点は改善する、という「選択的変革」が必要だと思います。
次のようなユダヤの格言があります。
子どもたちに自分の学んだことのみを教えてはいけない。なぜなら彼らはちがう時代に生まれているのだ。
こういう格言もあるので、デジタル機器や電子書籍の良さも評価しないといけないのかもしれません。しかし、子どもたちには「紙の本を読む脳」をしっかり鍛えてほしいと思います。
このようにネットのブログで、紙の本を読むことの大切さを訴えるのも、矛盾していると思われるかもしれません。メアリアン・ウルフ氏が強調しているのは、「紙の本を読む脳」と「デジタルで読む脳」はどちらも大切ということです。
その際に「デジタルで読む脳」に関して、デジタルに中毒性があり、放っておいてもデジタル機器づけになりがちなので、デジタル過多に注意することが大切なポイントです。そして「紙の本で読む」という行為はおろそかになりがちなので、「紙の本で読む脳」を意識的にトレーニングして活性化することが重要です。
特に小さな子どもや小学校低学年の場合は、デジタル機器の使用には慎重になった方がよく、「紙の本」と「手で書いて覚える」という伝統的な手法の価値を大切にした方がよいようです。
先日(4月28日付)のブログで「教育のICT化は学力向上とは無関係」と結論づけましたが、前述のフィラデルフィアの図書館の例を見るとひょっとすると「教育のICT化が学力低下につながる」という可能性も考えられます。教育のICT化には慎重になる必要があります。
今日もまた長いブログを書いてしまいましたが、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。複雑さから逃げない、という姿勢は大切です。
*参考文献:メアリアン・ウルフ、2020年「デジタルで読む脳 × 紙の本で読む脳」インターシフト