萩生田文部科学大臣の「身の丈」発言のおかげで、教育政策への関心が高まっています。大学の英語入試を民間業者テストに切り替えることの問題点が明らかになり、政府は延期を決めました。延期ではなく取りやめるべきだと思います。しかし、とりあえず来年春の大学入試での導入を食い止めることができました。高校生や教員、市民と野党が力をあわせて、政策の問題点を指摘してきた結果であり、国会による行政のチェック機能を果たした一例だと思います。
萩生田大臣の「身の丈」発言の最大の問題は、教育格差を助長する制度改悪を肯定した点にあります。東京都の中高一貫の名門私学出身の萩生田大臣には、地方の公立中高生のおかれている状況に対する想像力が欠けているのだと思います。教育機会の均等に反する政策は導入すべきではありません。安倍政権の「教育再生」の問題点について立ち止まって考えるよいきっかけだと思います。
そこで私が井手英策慶応大学教授の指導のもと同僚議員といっしょに出版した本「リベラルは死なない」(朝日新書)のうち、教育について私が執筆した部分をブログでご紹介させていただきます。文量が多いので、節ごとに小分けしてシリーズで連載させていただきます。
*ご参考:井手英策編著 2019年「リベラルは死なない」朝日新書
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だれが教育費を払うのか:教育の公共性
「日本政府は教育を軽視している」と書くと「えっ?」と驚く方もいるかもしれない。安倍総理は第一次安倍政権で教育再生会議を設けて以来、教育重視のポーズをとり続けてきた。しかし、実際には日本の公的教育支出は極端に少ない。2015年のOECDデータによれば、日本のGDPに占める公的教育支出の割合は2.9%であり、OECD加盟34か国中で最下位だった。OECD加盟国の平均は4.2%であり、先進国の平均よりGDPの1%分以上も公的教育支出が少ない。GDPの1%といえば、防衛費並みの巨額の予算である。
では日本の教育支出が少ないかといえば、そうでもない。政府と家計の教育支出を合計すると、先進国平均に近い教育支出になる。つまり日本では、政府が教育費をケチっているかわりに、家計がムリをして多額の教育費を支払って穴埋めしている構造があるのだ。
さらに公的教育支出の中身をみると、初等教育(小学校)や中等教育(中学、高校)の支出は、他の先進国と比較してもさほど遜色ない。他方、就学前教育(幼稚園、保育園)および高等教育(大学教育)への公的支出が極端に少ない。結果的に幼稚園、保育園と大学にかかる家計の教育費負担が重くなっている。
義務教育である小中学校、および、進学率が100%近い高校に関しては、公的負担に国民的合意がある一方で、就学前教育と大学教育は自己負担(家計負担)を当然視する国民が多いことの裏返しといえるだろう。
世論調査によれば、国民の約8割は「大学教育の費用は個人が負担すべき」と考えている。大学教育の便益を享受するのは個人であり、受益者負担の原則にのっとり大学授業料を自己負担すべきとする考えが根強い。
たしかに大卒者の平均給与は高卒者の平均給与より高い。また、大学教育を受けることで教養や視野が広がり、個人の満足度も上がるだろう。個人が大学教育の便益を享受していることはまちがいない。その点では受益者負担の原則には一定の説得力がある。
他方、大学教育は、個人の私的利益だけではなく、社会全体の利益にも貢献している。大学で知識や技能を身につけた卒業生は、労働者としての生産性が高まり、経済成長に貢献する。大学教育を受けたおかげで所得が向上すれば、その分だけより多くの所得税を払うことにもなる。国が大学教育に税金を投入しても、それを上回る税収増をもたらすことができれば投資として割にあう。
それだけではない。大学教育を受けた人の割合が高まるほど、犯罪発生率が低下したり、市民活動に参加する人が増えたりといった正のインパクトもある。成熟経済においては、道路や空港といったハードのインフラ建設に投資するよりも、大学教育に投資する方が収益率は高いという研究も多く、大学教育は効率的な公的投資といえる。
就学前教育や初等中等教育も公共性が高い。人生のスタートラインにあたる就学前教育の機会は、すべての子どもに平等に開かれるべきである。親の所得に関係なく、政府が責任をもって質の高い就学前教育をすべての子どもに提供すべきである。また、義務教育には、子どもたちに共通のルールや価値観を身につけさせ、コミュニティの基盤を形成するという重要な役割があり、公共性はきわめて高い。
教育における受益者負担や自己責任といった考えかたが、公的教育支出の拡大を阻んできた。これからは社会全体で子どもたちの教育を支えるという発想に切り替えていくことが、経済的効率性と社会的公平性の両面から重要である。教育の社会的意義や公共性について国民的な理解を深め、公的教育支出を増やすことが大切である。(つづく)