フランシス・フクヤマ氏の新刊「政治の衰退」から再びです。最初に用語の定義から入りると、「家産制国家」とは「領土や人民などがすべて君主の私有物となされる国家。封建時代の国家、ことに領主国家がこれにあたる」と定義されます。
フクヤマ氏は次のように述べます。
親族や友人を頼りにすることは人間の社会性の規定値(デフォルト)の状態であり、強力な誘因が働いて、その状態に逆らった行動を促されなければ、家産制は必ずかたちを変えて戻ってくる。
太古の昔から人間社会では、親族や友人を頼ってきました。それが当然であり、自然です。家産制国家というのは、人類の歴史の早い段階からの自然状態に近いのだと思います。逆に、近代国家における「法の支配」や「民主主義」といった制度は、権力の抑制や協調といった人間の不断の努力が必要であり、かなり不自然な状態ともいえます。
情実に左右されない近代的国家制度によって規定値にまったく逆らった行動を強要されている私たちが、いつか誘惑に負けて家産制に戻るリスクはなくならない。どんな社会のエリート層も、政治システムを利用する特権を用いて自分はもちろん、親族や友人の地位を確保しようとする。政治システムのなかにある他の組織的な力が働かなければ、そうした行動を防ぐのは難しい。そのようなエリート層の行動は、自由民主主義の発達した国でも起こり得るのだ。家産制国家に回帰するプロセスは、現在も続いていると言っていいだろう。
まさに安倍政権の「お友だち優遇政治」や「忖度政治」のことを指しているように思えてなりません。昭恵夫人や加計理事長のような家族や友人を優遇し、国の補助金選定や国有地の売却で不透明な手続きが行われました。日本は「安倍王朝」という名の家産制国家になりつつあるのかもしれません。政治の衰退であり、民主主義の後退といえます。フクヤマ氏のいう「他の組織的な力」とは、国会による監視、自律的な官僚制、司法制度による抑制だと思いますが、それが今の日本では十分に機能していません。
さらにフクヤマ氏は次のように述べます。
日本には強く自律的な官僚制度の伝統があり、官職を腐敗によって分配する慣行はない。しかしながらこの数十年間、いわゆる金権政治において、予算というかたちを借りた利益のバラまきが横行してきた。自民党はいろいろな補助金を巧みにバラまいて、政権を維持してきたのだ。2011年に東北地方で起きた大地震と電子力発電所事故後に日本を襲った危機的状況を見れば、電力会社のような利益集団が、規制当局や監督機関を掌握しているという事実は明らかである。
フクヤマ氏は日本の状況をよく把握しています。この本の原書が出たのが2014年なので、フクヤマ氏は第二次安倍政権以降のことは知らない段階で、この記述をしています。今だったらどんなことを書くのか興味深いです。
フクヤマ氏はかつて「歴史の終わり」を書きましたが、「再び家産制国家へ」といった表現を使うところも見ても、すっかり宗旨替えしたようです。歴史は終わっていません。進歩したり、後退したり。リベラルな民主主義が世界中で後退するなか「歴史は終わらなかった」ことは明らかです。
この本のタイトル「政治の衰退」は日本でも顕著です。もういちど踏ん張って歴史の流れを逆転させ、「政治の衰退」に歯止めをかけ、「政治の発展」へのシフトしなくてはいけません。石破さんが頑張って自民党総裁選に勝利して日本国の首相になっても、自民党政治が続く限り、「政治の衰退」は止まりません。安倍政治だけではなく、自民党政治を終わらせることを目標にしなくてはなりません。「政治の衰退」のトレンドを逆転させるのは、われわれ立憲民主党しかいません。
*参考:フランシス・フクヤマ 2018年 『政治の衰退(上)』 講談社