フランシス・フクヤマ氏の新刊「政治の衰退」を読んでいて「なるほど!」と思う記述に出会いました。
政府の質を見るにはもう一つの側面がある。(中略)それは、どの程度の自律性を政府が持っているか、である。民主主義国の国民であれ、権威主義の統治者であれ、政治支配者に仕えるのが政府である。だが、政府はその任務遂行能力について多少なりとも自律性を与えられている。自律性の最も基本的な形態といえば、政府が自らの職員を管理し、政治的見地よりも専門的立場から人材を採用する権利であろう。
政府の自律性を奪い、「政府が自らの職員を管理し、政治的見地より専門的立場から人材を採用する権利」を奪ったことが、安倍政権の「忖度政治」を生んだといえるかもしれません。
内閣人事局という制度をつくり、幹部公務員の人事権を官邸が握った結果として、官僚人事が「専門的立場」よりも「政治的見地」を優先するようになりました。
自らの出世を考えれば、キャリア官僚たちは、プロフェッショナルな行政官としての矜持より、政治家(特に安倍首相とその周辺)への気配りを優先するようになります。そのことが政府の自律性を失わせ、「政治的見地」が最優先される事態を招きます。
もちろん政府の自律性が高すぎることにも弊害があります。フランシス・フクヤマ氏は次のように述べます。
逆に自律性が大きすぎると、腐敗の問題が起こったり、政治的統制の範囲を超えて官僚が勝手に方針を決めたりして取り返しのつかない事態に陥りかねない。
これは以前に「官僚主導政治」の弊害が叫ばれ、霞が関の官僚機構と自民党族議員が結託していた頃に見られた状況だと思います。1990年代までは自民党の派閥政治と族議員政治のミックスにより、政治が機能不全に陥り、目の前の課題に適切に対処できない状況を生みました。
しかし、橋本行革により内閣官房や内閣府の力が強化され、首相官邸に権力が集中し、いわゆる「政治主導(内閣主導)」は強化されました。さらに民主党政権後の安倍政権は、衆参の両院で3分の2の議席を占め、安倍一強と呼ばれるほど、首相に権力が集中しました。
つまり1990年代までは政府の自律性が大きすぎる弊害が起き、最近は政府の自律性が小さすぎる弊害が顕著にみられるようになりました。
安倍総理を守るために官僚が無理に無理を重ね、公文書を改ざんしたり、国会で虚偽の答弁をしたりする状況は、政府の自律性が小さくなりすぎた弊害といえます。
政府の自律性は、大きすぎても、小さすぎても、いけません。バランスが大切です。いまやるべき政治改革・行政改革とは、政府の自律性のバランスを取り戻すことです。
内閣人事局では人事権を濫用し、首相官邸が官僚を脅したり、気に食わない官僚を左遷したりとやりすぎました。権力者は権力の使用にあたっては抑制的でなければなりません。安倍総理とその周辺には「権力の抑制」という視点がまったく欠如しています。
安倍総理と仲良しのトランプ大統領やプーチン大統領、エルドアン首相、モディ首相にも同じ傾向がみられます。フランシス・フクヤマ氏のいう「政治の衰退」の結果、世界ではポピュリスト的で強権的な政権が増えています。安倍政権はそのトレンドに見事に乗っているといえるかもしれません。
現在の重要な政治課題は、強権的なポピュリスト政権に対抗し、政府の自律性を適切なレベルまで回復させ、「政治の衰退」のトレンドを逆転させる方法を考えることだと思います。
*参考文献:フランシス・フクヤマ、2018年、『政治の衰退』 講談社