昨年に引き続き、今年も高校で月3コマの授業をすることになりました。昨日は、今年最初の授業でした。国際協力や国際情勢についての講義ですが、受験科目でもなく、評価をする必要もなく、自由に自分で具体的なテーマを選べます。テーマを選び、情報を集めて整理し、話す順序やプレゼンテーション術を考えと、準備はけっこう大変です。
去年と同じテーマの授業ですが、昨年の反省を踏まえて改善し、項目を追加してバージョンアップしました。「2度目の講義だから昨年よりは楽だろう」と思っていましたが、そんなことはありません。
世の中、思い通りにはいかないものです。1コマ目の授業は時間が足りなくなり、2コマ目と3コマ目の授業は時間が余ってしまい、冷や汗をかきました。時間配分のミスは、心理的に動揺します。気づいたのは、時間が足りないよりも、時間が余る方が、より心理的には大きな負担です。
質疑応答の時間をとったのに質問が出ないときも困ります。質問することがないというのは、二つの理由が考えられます。ひとつは、私の説明が完璧で漏れがなく、質問する必要がないケース。しかし、そんなことは通常ありません。もうひとつ考えられる理由は、講義がおもしろくないので、質問が出ないというケース。後者のケースが大半です。質問が出ないと少しへこみます。
他方、授業中は質問しなかったのに、授業が終わってから個別に質問しに来る生徒もよくいます。とても本質的でよい質問だったりします。みんなが疑問に思っているような質問だったら、授業中に質問してほしいものですが、そうは問屋が卸しません。政治の世界では図々しい人が多く、聞かなくていい質問までする人が多いのですが、質問するのも恥ずかしがるような高校生の慎ましさを見習ってほしいものです。
昨日は、今年初めての授業ということもあり、生徒たちの反応がよめず、苦労しました。昨年よりも「参加型授業」にしようと心がけて、高校生にも意見や予想を述べてもらいましたが、参加型授業は人数が多いとやりにくいことを実感しました。
昨日の授業では、フィリピン留学体験について話しました。高校時代から発展途上国の貧困問題に興味があったので、大学では「開発経済学」を勉強することにしました。机の上の勉強だけではダメだと思い、実際に現地に行ってみようと考え、途上国の大学に留学することにしました。
大学3年生のときに交換留学制度を利用して、フィリピンのネグロス島の田舎街にある大学に留学しました。当時ネグロス島といえば、「サトウキビと飢餓の島」と言われていました。サトウキビの大農園主が少数いる一方で、大多数の農民は貧しい土地でした。
留学先では、フィリピン語、フィリピンの歴史、社会学、ソーシャル・ワークなどを履修し、フィリピン人の学生たちと机を並べて勉強しました。ちなみにフィリピン語はまったく身に付きませんでした。エアコンのない4人部屋の学生寮でフィリピン人のルームメイトたちと生活しました。
フィリピン留学時代は、私の人格形成にもっとも影響を与えた1年でした。1年で性格も変わった気がします。以前よりも図太く楽観的になった気がします。高校生のころは人見知りで友達の少ない帰宅部の「孤独な高校生」でしたが、フィリピンに留学して「孤独でも平気な大学生」になりました。マイペースで同調圧力に強い性格は、当時形成されたのだと思います。
まだまだ貧しかった当時のフィリピンで街中のストリートチルドレンやホームレスの人たちを見ていたら「かわいそう」という感情よりも、「こんなに過酷な条件でも人間はたくましく生きていけるもんだ」と妙に感心しました。その結果、「どんな環境に置かれても、人間は何とか生きていける」というあっけらかんとした人生観に立つようになりました。政府機関職員という安定した職をあっさり辞めたり、30歳を超えてから突然大学院に留学したり、選挙に立候補したりと、ハイリスクな選択肢を選んできたのは、フィリピン時代に身に着いた人生観の影響だと思います。
同時に、フィリピンで生活してみたおかげで、豊かな先進国の日本に生まれ、大学まで教育を受けさせてもらえた自分が、いかに恵まれているかを実感しました。小学校にも行けない人が世界には何億人もいるなかで、大学教育を受けさせてもらえたのは、自分の実力でもなんでもなく、単に運にめぐまれているだけです。運に恵まれた人間は、その分だけ社会に貢献しなくてはいけないと思うようになりました。今にいたる人生の進路を決めたのは、フィリピンでの生活体験だったと思います。
これから大学に進学し、就職して社会に出る高校生の皆さんには、高校生や大学生のうちにその後の人生を左右するような体験をしてもらいたいと思います。そんな思いからユニリーバ・ジャパン取締役人事総務本部長(当時)の宮田裕子さんの言葉を生徒に紹介しました。
子どもの頃とか若いときにインドとか南アフリカで生活した経験があるといった人は、きわめてハイポテンシャルである。(中略)丸1~3年、異質なところに身を置いてサバイバルしてきた経験のある人がほしい。帰国子女がほしいわけではない。
この感覚は納得できます。フィリピンでは、空港から街まで移動するのも大変、入国管理局で手続きするのも1日仕事、大学で成績証明書をもらうのも大変、銀行口座を開くにも何度も足を運ぶ必要があり、あらゆることがスムーズに進みません。公共交通機関は無茶苦茶。フェリーやバスの移動は、時間がかかり、かつ、危険。当時はインターネットも普及していないし、電気の供給も不安定でしょっちゅう停電していました。
治安も悪く、交通事故も多く、外国人を狙った詐欺師や犯罪者にもよく出会います。一方で、信じられないくらい親切な人も大勢います。何の見返りも求めずに親切にしてくれるフィリピン人の善人が大勢いて、その中にときどき偽装善人(=詐欺師や犯罪者)がごく少数混じっています。圧倒的に親切な人の比率が高く、人懐っこい人が多いので暮らしやすいのですが、年に数回は悪い人にひどい目にあわされます。人を見きわめるのは本当にむずかしいものです。
このようにフィリピンの大学で生活し勉強するのは、非効率この上ないと言ってもいいでしょう。しかし、毎日のようにトラブルに見舞われ、その処理に追われていると、サバイバル能力は自然と身に付きます。場数を踏み、修羅場をくぐるという意味では、短期間でぎゅっと凝縮した人生経験を積めます。
さらにフィリピンという日本とは異質な文化の土地でひとりで生きていくのは、毎日が新しい発見の連続です。多様性への理解が深まります。最近の企業経営で「ダイバシティー(多様性)」が重視されているようですが、先進国よりも発展途上国で暮らす方が、より多様な体験ができると思います。
フィリピンでは、思いがけないような僻地に日本語の慰霊碑が建っていることが多いです。多くの日本兵が亡くなった場所が、いろんなところにあります。私のいたネグロス島でも大勢の日本人が亡くなりました。日本占領時代の記憶のあるお年寄りに何人も出会って当時の話を聴きました。聴きたくない話もありました。戦争体験のある世代が存命のうちに、フィリピンに留学できて幸運だったと思います。
いろんなフィリピンでの体験ふり返ってみると、よい経験になりました。たった1年でしたが、フィリピン留学は自分の人生の中で大きな位置を占め、留学して本当に良かったと思います。そんな体験談を高校生に話しました。そんなこんなで、昨日は3コマの授業をして、ヘトヘトになって帰ってきました。生徒たちの心に少しでも残る話ができたらよいと思うのですが、どうだったか?
蛇足:私がフィリピンに留学したICUの交換留学プログラムを利用し、秋篠宮家の長女の眞子さまは英国のエディンバラ大学に、次女の佳子さまは英国のリーズ大学に留学されました。同じ大学の同じプログラムを利用したとは思えないくらい、大学の雰囲気がちがいますね。私も交換留学で英国の大学に行っていれば、今ごろ上品な紳士になって安定した人生を歩んでいたかもしれません。いばらの道を選んでしまったのは、フィリピンのせい?